赤い靴 母子の像
静岡県 静岡市駿河区 日本平
童謡 赤い靴 歌詞
1
赤い靴 履いてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
2
横浜の埠頭(はとば)から 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
3
今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
4
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 会うたび 考える
日本有数の景勝地である日本平には童謡〜赤い靴のモデルとなった母子の像があります。
儚げな少女の境遇を謡う童謡【赤い靴】は、大正~昭和初期の詩人で作詞家の野口雨情が1922年大正11年に発表しました。
この歌詞に登場する赤い靴を履いてた女の子のモデルは、【岩崎きみ】という実在する少女でした。
岩崎きみは、1902年 明治35年7月15日、景勝地 日本平に近い静岡県不二見村~現在の静岡県静岡市清水区宮加三で生まれました。
岩崎きみ の母は、【岩崎かよ】といい、娘きみを19歳で生みました。
岩崎かよ は、父と弟を幼い時に亡くし、母(せき)は佐野安吉と再婚、かよは18歳の頃、山梨の紡績工場へ出稼ぎに出るも、間も無く身籠って帰郷し、父の名前を明かすこともしなかったことから、近所の風当たりは厳しいものでした。
風当たりの厳しい中で実母の(せき)が病死し間も無く、かよは(きみ)を出産しました。
生まれた(きみ)は病弱で、母となった(かよ)の心配は尽きませんでした。
父親の名を明かせない私生児として(きみ)を産んだ岩崎かよ。
1903年 明治36年
かよ は今後の生活の糧のため、義父の佐野安吉と開拓団員として北海道へ渡る決意をします。
そして北海道の玄関口、函館市へたどり着きます。
新天地への望みを抱いて北海道へ渡って来た かよ と義父の佐野安吉。
なかなか開拓団へは加わることが出来ない日が続き、3人は函館で糊口をしのぐ日々を送ります。
函館での生活が続く中、かよ は青森から渡って来た鈴木志郎と知り合い、恋仲となります。
やがて北海道 後志(しりべし)地方の留寿都(るすつ)村の平民社農場への入植が決まります。
ここで かよは悩みます。
暮らしてみて体験した北海道の想像以上の寒さ。
まだまだ幼い病弱な娘 きみを連れて行けるかということです。
きみ は3歳になったばかり。
明治時代後期の北海道開拓は、その多くの地域で開拓の手が入っていたとはいえ、まだまだ命がけの覚悟を必要とされました。
思い悩む かよに義父の佐野安吉は函館で知り合った教会のアメリカ人宣教師のヒューイット夫妻の養女として託してはどうかと話します。
悩んた末に かよ はヒューイット夫妻にきみ を養女として託し、義父 佐野安吉、恋人の鈴木志郎と留寿都村へと旅立ちました。
ヒューイット夫妻に きみ を託して、かよは北海道 後志地方の留寿都村へと旅立ちました。
しかし、ヒューイット夫妻がアメリカへ帰国することになった時、きみ は当時不治の病とされていた結核に侵されしまいます。
結核を発病した きみ は、アメリカまでの船旅が出来ず、ヒューイット夫妻は東京 麻布十番の鳥居坂教会の孤児院(永坂孤女院)へ預けられました。
預けられた きみ は、当時 孤児院を運営していた東洋英和女学院の必修奉仕で日曜学校の教師として来院した村岡花子(赤毛のアン~児童文学書翻訳家)とも短い交流がありました。
そして きみ は、3年の闘病生活の末、9歳という あまりに短い生涯を東京で閉じました。
1911年 明治44年 9月15日の夜のことでした。
岩崎きみ の母、かよ のその後
きみ をヒューイット神父夫妻に託してから2年間、かよ は鈴木志郎と結婚し、二人の間には娘(その)が生まれますが、留寿都(るすつ)村での開拓は困難続きでした。
留寿都村での開拓は結果的に失敗し、家族は大都会 札幌に出ました。
札幌で夫 志郎は北門新聞社に入社、そこで知り合ったのが当時、北門新聞社にいた野口雨情でした。
同世代、そして子供1人という同じ家族構成ということもあって、両家族は親しくなり、やがて一軒家を二家族で借りて共同生活をはじめました。
新聞社編集の傍ら、作詩もしていた野口は、やがて かよ の手放してしまった娘 きみ への想いを聞きます。
決して消えない母親の愛情を見た野口は、詞に綴りました
後に詞に本居長世が曲をつけて完成したのが 童謡【赤い靴】で、母親の かよ は、野口の発表した童謡 赤い靴 をよく口ずさみ、アメリカに行くことなく早逝した娘の死も知らないまま、1948年 昭和23年、【きみちゃん ごめんね…】との言葉を残して、64歳で晩年を過ごした小樽市で亡くなりました。
赤い靴の少女と家族の像
北海道小樽市色内 運河公園
童謡 赤い靴 の女の子のモデルが明らかになったのは、1973年 昭和48年11月の新聞に掲載された【野口雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です。】という岩崎きみ の義理の妹にあたる【岡その】の新聞投稿がきっかけでした。
この記事を当時 HTB北海道テレビの記者だった菊池 寛(ひろし〜後のHTB北海道テレビ編成局長)が知り、5年余りの歳月をかけて取材し、赤い靴の少女が実在し、東京で亡くなっていたことを突き止めました。
その後も童謡【 赤い靴】は日本中で唄われ続き、岩崎きみ と母をせめて会わせてあげようと母子の像や親子の像が静岡、北海道、横浜、東京などで建立される動きとなりました。
日本平に建立された母子の像は、母 かよ の生まれ育った地に、小樽市の家族の像は、母 かよ が晩年を過ごし、娘を想いながら亡くなった地にそれぞれ建立されました。