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日本歴史紀行

名城紀行 3 - 4 駿府城 4



駿府城
静岡県 静岡市 葵区 追手町 駿府城公園


関ヶ原の戦いで勝利し、抵抗する勢力を排除した徳川家康は、1603年 慶長8年に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開き、武家の頂点となりましたが、将軍職をわずか2年で三男の秀忠に譲り、自身は人質時代を過ごした駿府に移りました。

1607年 慶長17年 2月、家康は大御所として駿府城の大修築に取り掛かり、全国の諸大名に普請を命じました。


普請が進んで半年足らず、この年の7月に家康は駿府城に入城しましたが、暮れの12月に普請中に火災が起き、本丸が焼失するトラブルも発生します。


翌年 3月に本丸御殿が完成し、本多正純、成瀬正成、板倉重昌らの譜代家臣に加え、天海、崇伝、林羅山の僧侶らといった面々が家康の周囲に集まり、二元政治の舞台となり、江戸の将軍家に影響力を与える政治勢力を作り上げました。


1611年 慶長16年、二条城で豊臣秀頼と会見して豊臣家の討伐を決意した家康は、方広寺大仏の開眼供養に着目し、梵鐘に記載される鐘銘に【国家安康】【君臣豊楽】の二句に家康の名を分断して呪詛し、豊臣を君として楽しむと難癖をつけて中止を命じ、豊臣方は大量の浪人を召し抱えて戦に備えます。

豊臣と大坂 冬、夏の陣で戦い滅ぼし、戦乱の根と後顧の憂いを絶った家康は翌年の1616年 元和2年に死の床につきます。


遺骸は久能山に納め、葬儀は増上寺、位牌は大樹寺に安置し、一周忌にて日光山に小堂を勧請せよと遺言を残しました。


1616年 元和2年4月17日 家康は75年の忍耐と激動の生涯を終えました。


家康の死後、駿府城は将軍、徳川秀忠 次男の忠長が駿河55万石の太守として継ぎますが、3代将軍 徳川家光の代になると改易され、以降は城主は就かず、幕府により城代が置かれ、幕末に至ります。


駿府城公園について…


東御門

巽櫓の内部は、駿府城の歴史を知ることが出来る小さな歴史館の役割を果たします。




駿府城復元模型

出土した駿府城の鯱



〜人の一生は重き荷を背負うが如し〜
で始まる東照公遺訓、徳川慶喜 書






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コメント一覧

aoikitakaze4390031
@dankainogenki コメントありがとうございます。
本当にたくさん ありますね。
出来る限り探索して、歴史を知るのがぼくの目標です。
dankainogenki
日本には、たくさんのお城がありますね。

ご当地も、たくさんです。
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