推古天皇 陵
大阪府南河内郡太子町山田
3月7日 推古天皇 崩御
628年 推古天皇36年3月7日、初の女帝 推古天皇が崩御されました。
権勢を牛耳る蘇我馬子に苦慮するも、聖徳太子が摂政として治世を支え、十七条憲法を制定するなど、様々な改革が成されました。
推古天皇は、592年 臣下ながら天皇家の外祖父となり、絶大な権力を誇った蘇我氏と対立した32代天皇の崇峻天皇が蘇我馬子の意思を汲んだ東漢直駒(やまとのあやの あたいこま)により暗殺された後に即位した初の女帝です。
推古天皇は、蘇我馬子を叔父に持ちながらも甥にある聖徳太子(厩戸皇子)を摂政に据えて十七条憲法、冠位十ニ階の制定、遣随使の派遣と次々と先進的な改革に着手させました。
専横に走りそうになる馬子を諌めつつ政権を保っていた推古王朝でしたが、
622年 太子が死去すると626年に馬子も死去、両雄の死から4年後の推古天皇36年(628年4月15日)、推古天皇は75歳の生涯を閉じます。
太子の上宮王家は子の山背大兄王と馬子の蘇我家は子の蝦夷か跡を継ぎ、天皇家を巻き込む争いが次代に受け継がれました。