東海寺 世尊殿
東海寺 梵鐘
東海寺
品川区北品川3丁目
正保2年 12月11日(1646年1月27日)
庶民の身近なおかず【たくあん】
たくあん漬けを考案したとされ、また、生まれながらの将軍〜絶大な権力者として君臨する徳川幕府三代将軍、徳川家光公が帰依した沢庵和尚がこの日亡くなりました。
沢庵和尚の墓
品川区北品川4丁目 東海寺大山墓地
沢庵宗彭(たくあんそうほう)
沢庵和尚は但馬国の当主、山名祐豊の重臣、秋庭綱典の次男として生まれました。
この山名家は近親に応仁の乱の西軍の総大将〜山名宗全を輩出する室町幕府内の名門でした。
山名家の重臣の次男坊として将来を嘱望されるも、但馬国は東から織田、西から毛利と拡大する両家の狭間に置かれ、生き残りを賭けた領国経営を続けるも、当時、信長家臣の羽柴秀吉に攻められ、滅亡となりました。
山名氏滅亡後に秋庭族は流浪の身となり沢庵は出家、仏門に入りました。
臨済宗の総本山、大徳寺で修行僧となり、その聡明潔白さから次第に多くの人々に支持され、大徳寺住持になります。
1599年、慶長4年
豊臣政権末期に石田三成が佐和山城内に創建した母の菩提寺、瑞嶽寺に沢庵が師事した薫圃が入るため同行し、翌年の関ヶ原の戦いに巻き込まれます。
1600年、慶長5年9月15日
関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍が勝利し、
瑞嶽寺は翌日、石田三成の居城〜佐和山城を攻め寄せた東軍に包囲され、沢庵は退去を命じられて脱出し、難を逃れました。
やがて時代は徳川将軍家の世となり、時の帝、後水尾天皇が大徳寺、妙心寺の高僧に紫衣の着用を許可、これが幕府の許可を得ない行為にあたる紫衣事件として騒ぎになります。
沢庵はこれに幕府に抗議したところ、連座して、二代将軍 徳川秀忠に出羽国の上山に配流となるも、その後の天海僧正や柳生宗矩の熱心な働きかけもあり、徳川秀忠公逝去の折に赦免され、後に三代将軍 徳川家光は沢庵に帰依する程、好かれました。
たくあん漬け と沢庵
また、沢庵はたくあん漬の考案者でもありました。
ある日
沢庵は将軍、家光公から、何を食べても美味しいと思わないと相談を持ちかけられます。
沢庵は東海寺に家光公を招き、家光公を数刻の間、待たせたまま、ようやく家光公に提供したのが、たくわえ漬けなる大根の漬物でした。
空腹だった家光公は湯漬けと共にあっという間に平らげ、たくわえ漬けを沢庵の漬物だから、沢庵漬け【たくあん漬け】とせよ。とし、現在に伝わる【たくあん漬け】として世に広まりました。
問答河岸跡碑
品川区北品川2丁目
問答河岸は、かつて品川の海岸にあった波止場のことで、江戸幕府 徳川三代将軍 徳川家光公が北品川の東海寺を訪れた際、住持の沢庵和尚が品川宿の辺りまで出迎えた際、将軍家光公と禅問答をしたという逸話が【徳川実記】にあります。
家光公の
【〜和尚、海に近くして東(遠)海寺とはこれ如何に?】という問いに、
沢庵和尚は
【上様、大軍を擁しても将(小)軍と言うが如し】と答えたと伝わります。
この駄洒落の様なやり取りに、時代はすでに盤石の徳川の世となっていたものの、将軍 家光公と沢庵和尚との着飾らない間柄を伺えるエピソードです。