小樽運河
北海道小樽市色内1丁目〜3丁目
小樽港は江戸時代からニシン漁をはじめ、アイヌとの交易港として栄え、明治時代となってからも、函館港と共に北海道開拓の玄関口として発展しました。
日露戦争の終結以降、樺太、ロシア沿海州方面への輸出港としての拠点となった小樽港ですが、日露戦争から10年を経た1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパへ輸出する小麦類が年々増え出して行き、幌内鉄道や、湾内を埋める様に増設された石造倉庫から運び出される大量の積荷は、接岸する船舶を港湾のみではさばき切れなくなり、船を沖合で停泊させ、艀(はしけ)と呼ばれる台船を使って船に近づけて荷を降ろす様になります。
こうした増え続ける荷役に対処すべく、小樽港に運河を造営する必要を迫られ、1914年(大正3年)に小樽運河の造営が始まります。
運河沿いに密集する石造倉庫群
北海製罐 小樽工場
北海製罐 小樽倉庫
運河沿いには缶詰工場も建設され、小樽の輸出産業に大きく貢献しました。
既に小樽港に140棟もの密集する石造倉庫を活用できる様に運河は緩いカーブ状に設計され、小樽港の一部をを埋立て、10年の歳月をかけ、1923年(大正12年)12月27日に小樽運河は竣工しました。
こうして荷を載せた艀は、沖合から直接倉庫付近まで出入りできる様になり、石造倉庫からは運河と港と一帯となって荷をさばける様になり、最盛期には4000人もの荷役関係者が働くことで小樽港周辺は大いに栄えました。
しかし、戦後になり、小樽港全体の機能強化が計られて次々と埠頭が増設されると艀は運河に入り込む必要が無くなると、利用頻度は減少し、運河は一気に衰退してしまいます。
加えて昭和30年代になると、小樽市と札幌を結ぶ国道5号の渋滞が慢性的となり、衰退した運河を埋立て、新しくバイパス道路を作るべきという声が高まります。
小樽運河の全面埋立てをしてのバイパス道路建設計画が表明されると市民と支持者の猛烈な反対運動を引き起こし、この反対運動と議論は10年以上に及び、道道17号〜小樽港線の建設に伴う埋立ては、双方の妥協の結果ともいえる運河部分の半分の埋立てという決着を見ました。
これにより、運河の部分埋立てにより狭くなったために従来の様な艀が運河内に入り込むことは困難となり、運河は主に観光のために利用されるという流れとなります。
冬の小樽運河
運河は荷役の役割をほぼ終えたものの、狭くなりながらも観光クルーズ船の運行は観光客に人気で、周囲の石造倉庫はレストランやショップ等に生まれ変わり、残された周囲の景観に調和した散策路や、ガス燈が設置されて幻想的な雰囲気を魅せるスポットとなり、現在は小樽、北海道を代表する観光地として訪れる多くの人々を魅了しています。
そして昨年 12月27日、小樽運河は竣工100周年を迎えました。