駿府城
静岡県静岡市葵区追手町駿府城公園
駿府城巽櫓〜東御門
巽櫓を斜めから観る眺めが美しい現在の駿府城公園の正門
駿府城巽櫓(たつみやぐら)
駿府城巽櫓(たつみやぐら)
徳川家康が終の棲家として選んだ地は、生まれ故郷の岡崎でも、将軍として君臨した江戸でもなく、少年期から青年となり、19歳まで今川氏の人質として過ごした駿府でした。
駿府城のある地は、静岡平野の比較的 標高の高い場所で、西に平野部を流れる安倍川があるものの水害が及ばず、また、安定した居住地だったため、家屋の立地に適していることもあり、治める側からも好都合でした。
~駿府城の前身、駿府 今川館~
南北朝時代の終末期、足利将軍家に連なる一族である今川氏の範国の代の時に足利尊氏が室町幕府を開き、駿河守護として選ばれました。
一族で信認の厚い今川氏は代々守護を忠実に務め、駿府城の前身となる駿府 今川館を創建。
応仁の乱以降 世情が不安定になる中、駿河は今川仮名目録など、堅実な領国経営で安定し、戦国大名として君臨しました。
今川氏が衰退の道をたどったのは、1560年 永禄3年、駿河今川氏9代 義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、討死して以降でした。
東御門
後継者の氏真は蹴鞠や和歌といった公家文化を好み、戦場を疾駆する武者では無いため、氏真を見限った人質の徳川家康は故郷の岡崎で独立し、家臣らが離れる今川家中を虎視眈々と狙いを定めた武田信玄が雪崩れ込み、氏真は義父にあたる小田原 北条氏を頼り駿河を明け渡しました。
二の丸水路
本丸堀
駿河は武田信玄が支配しますが、1573年 元亀3年に病没して武田の支配は10年と持たず、織田信長と共に武田を滅ぼした徳川家康が駿河を手にしました。
~徳川家康 駿府城を築城~
織田信長が本能寺で倒れた後、逆臣 明智光秀を倒した豊臣秀吉が天下取りの一番乗りを目指し、信長の遺児、織田信雄を圧迫。家康は信雄を助ける大義を掲げ、秀吉と戦います。
尾張の小牧、長久手で戦いが起こると滞陣にしびれを切らした秀吉の軍が家康の本拠地、三河へと軍勢を動かしたことで家康は急襲して局地戦で勝利。
大手御門跡
天守石垣発掘調査
その後、両者は滞陣を続け、長久手の戦いで互角に渡り合った家康でしたが、織田信雄が無断で秀吉と講和して戦いの大義を失い、国力の差もあり、家康は秀吉と和解。
秀吉が関白職を得た1585年 天正13年、家康は今川館跡地に駿府城を築城し、浜松から移ります。
秀吉は小田原征伐の論功行賞で家康を関東に移封。
豊臣政権下、中村一氏が駿府城を改築するも、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利すると家康は江戸に幕府を開き、駿府城を家臣の内藤信成に任せ、将軍職を2年で三男の秀忠に譲ると隠居の地を駿府に決めました。
徳川将軍家が武家政権を担った慶長時代以降、
将軍職を務めた家康が大御所となり、その権力で全国の外様大名に普請を命じた天下普請により駿府城は大きく姿を変貌しました。
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