小田原城 天守閣
小田原城
神奈川県小田原市 城内
戦国時代、下剋上の逸話を語る上で、現在 放送中の大河ドラマ~麒麟がくる~で重要なキャラクターである斎藤道三と共に、名前が挙がるのが北条早雲と言えます。
室町幕府の一役人に過ぎなかった早雲ですが、駿河 今川氏の後継者争いに介入したことから出世の糸口を掴みました。
凱旋の帰路、急死した当主 今川義忠の正妻である妹(姉)の子、龍王丸を後継者に推し、政敵である当主代理を討ち、今川氏の後継者問題を終わらせて駿河 興国寺城と11郡もの所領を得て今川家での地位を盤石にしたものの、その地位にこだわらず、早雲は独自の力で領土拡大と独立して大名への道を歩みました。
1493年 明応2年、早雲は、後継者争いから身内の殺し合いに発展した伊豆の堀越公方 足利茶々丸を攻め、茶々丸は自害(逃亡とも)、主だった抵抗も少なく、伊豆北部を手中にしました。
早雲は四公六民という年貢を設定、他国よりも緩やかな手法で伊豆の民を味方につけました。
次いで早雲は相模に狙いを定めます。
1495年 明応4年
早雲は、まず様々な理由で相模、小田原城の大森藤頼に進物を贈るようになり、友好関係を装い藤頼に接近します。
ある日、早雲は鹿狩りの鹿が箱根へ逃してしまい、勢子が伊豆方面へ鹿を追いやるので、山中へ入れさせて欲しいと要請します。
日頃の交流で油断しきっていた藤頼が早雲の勢子を箱根山中への入山を許してしまったため、勢子に擬装した早雲の兵は、松明を灯した牛を夜に追い立て、山を雪崩れの如く下ります。
火牛の計を表現した北条早雲 像
火牛の計と伝わるこの手法は、源平合戦の木曽義仲以来、謀略に長けた武将が使う手法として知られ、この時代では早雲が最初に用いたとされ、戦国大名の先駆けと言われる由縁となりました。
早雲の奪取した当初の小田原城は、山城程度の館でしたが、後に相模一国はおろか、関東の覇者となる北条氏の一大要害となります。