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日本歴史紀行

歴史紀行 特別編 12 ‐ 2 中條金之助景昭 像


牧之原台地を見守る様に立つ金之助景昭像


中條金之助景昭 像


静岡県島田市阪本



明治2年、静岡藩主 徳川家達からの扶持を頼りに久能山麓でくすぶる様に明治新政府の治世を見極めようとしていた中條金之助景昭と、前将軍 徳川慶喜の警護職にあった新番組の隊士達。


新政府の出した版籍奉還により藩主は藩知事となり、旧大名の様な主従関係は国策により否定されることとなり、役目も職も失ってしまいました。


それでも幼君ながら旧主、徳川家達は無役となった者達への扶持を明治2年になっても続けました。

幼君ながら徳川宗家を継いだ家達は、13代将軍 徳川家定の御台所として島津家から輿入れし、辣腕を振るった天璋院 篤姫が質素倹約を重んじて養育し、聡明な幼君として成長します。


お役目も無い中、捨て扶持だけ貰い続ける生活に居たたまれなくもなっていた金之助景昭は、勝 海舟を訪ね、旧幕府の領地ながら放置されていた金谷原(牧之原)の開拓を願い出ました。

勝 海舟は可能な限り尽力すると約束し、静岡藩は、金之助景昭を金谷原開墾御用方として官職の役を与え、新番組隊士らも開墾方として、開拓に従事させることに決め、明治2年7月に新番組は廃止となり、いよいよ隊士約250名が大井川を越えて金谷原に登ぼり、台地に踏み入れました。


1869年 明治2年7月、静岡藩は、藩知事 徳川家達が中條金之助景昭を開墾方頭として藩の役人に引き立て、新番組の隊士約250名を率いて金谷原を開拓させるべく入植しました。


開墾士族らが入植した谷口原をはじめとした台地は、農民すら開墾を見送っていた荒地で、その荒地を開拓するにも、まず課題となったのは住居でした。

士族達は近郊の農家や寺に身を寄せながら開墾を始め、ようやく雨風を防ぐ程度の住居を建てることが出来たのが年の暮れでした。


翌年の明治3年4月、静岡藩知事の徳川家達が領域の志太、榛原、小笠と、大井川の堤防工事の視察に訪れました。

その道中、谷口原の金之助景昭の住居を訪ねました。

金之助景昭は突然の藩主の訪問に驚き、家達のお供をします。

家達は帰り際、金之助景昭に【~農は里の宝、向こうの山は宝の山、皆で力を合わせ 宝の山を切り開けよ。~】と谷口原を指差し激励しました。


家達と金之助景昭は、これを期に交流も深まり、家達の剣術指南役に命じられ、激励に応えるべく必ず開拓を成功させるべく誓います。

明治4年に廃藩置県となり、藩知事と開墾方士族とは、直接の主従関係は解消されることとなりますが、金之助景昭の台地を開拓させる意志は変わることなく精を出します。

開拓も少しずつ広がり、金之助景昭の茶園も収穫時期には農民を雇うまで成長させた明治8年、明治政府は金之助景昭と旧知の友である山岡鉄舟を通じて神奈川県令(現代の知事職)に推薦され、山岡が金之助景昭の説得に来ました。

金之助景昭は、山岡の誘いに【 一旦 山へ上がったからには山は下りぬ、俺は死んだら茶の肥やしになるのだ。】と笑って誘いを固辞しました。


明治11年には、開拓士族が個人個人が独自に製茶していたものを集めて共同製茶して輸出を図るとして金之助景昭が牧之原士族全員の総意として意見をまとめ、牧之原製茶会社を設立し、明治政府からも茶園の培養費を借り受けることが出来るようになります。

同じ年、明治天皇の北陸巡幸の道中、静岡行在所に金之助景昭が召され拝謁、天皇から金千円を下賜され、開墾の功績を認められました。






金之助景昭の開墾した谷口原




金之助景昭は、41歳で牧之原台地に踏み入れ、生涯を賭けて茶園開墾に取り組み、金之助景昭自身の開墾した茶園は現代の換算で約76ヘクタールにも及び、開拓事業の先頭に立ち続けて成功に導きました。

明治29年1月19日、金之助景昭が70歳の生涯を閉じた時、葬儀委員長は勝 海舟が務め、開拓士族達は死を惜しんで二日間墓参を続けました。


中状金之助景昭 墓





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