広島 原爆ドーム
世界遺産 原爆ドーム
広島県広島市中区大手町
太平洋戦争 終結【日本の無条件降伏】の10日前となる 1945年 8月6日、午前8時15分、人類史上初 の原子爆弾 (原爆)が広島市に投下されました。
原爆ドームは、明治時代後期に日清戦争で大本営が置かれた広島市か軍都として発展目まぐるしい中で、さらに海外向けに広島産の製品を紹介する拠点施設~広島県物産陳列館として、大正時代の1915年 大正4年4月5日、チェコ人建築家のヤン・レッツェルにより設計され、竣工しました。
ヤン・レッツェルの起用は、広島県知事の寺田祐之が前職の宮城県知事当時に、レッツェルの手掛けた宮城県の松島パークホテルの姿を見ていたことから決めたもので、バロック様式(芸術的な彫刻、絵画を加える建築物)の斬新なデザインで竣工した陳列館は、軍都とはいえ、まだまだ和風建築の多かった広島市において、一際 異彩を放っていました。
洋式建築が映えることから、産業製品の陳列に留まらず、絵画、彫刻の作品展もよく催され、文化施設としても多く利用されました。
昭和時代になり、日中戦争を契機に陳列館は産業製品の陳列を停止し、行政施設として、内務省中国四国土木事務所が入り、1941年 昭和16年 12月8日、太平洋戦争を向かえます。
太平洋戦争は、開戦当初は日本が有利に進んだものの、翌年のミッドウェー海戦の敗北から不利になり、主要都市の本土爆撃、東京大空襲、米軍沖縄上陸を許して敗北が決定的となり、
1945年 昭和20年、8月6日午前8時15分17秒(日本時間)、アメリカ軍のB-29爆撃機【エノラ・ゲイ】が、建物の西隣に位置する相生橋を投下目標として原子爆弾【リトルボーイ】を投下します。
投下の43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約600メートルの地点で炸裂しました。
ほぼ、真上からの投下にも関わらず建物が残ったのは、建物の全体がガラス張りで、ガラスが爆発直後に吹き飛ばされたことにより爆風のエネルギーを逃すことが出来たためで、周辺が焦土と化する中で、ほぼ唯一 全壊を免れ、終戦後に戦争と原爆の悲惨さを訴えるシンボルとなりました。
原爆ドームの名前は、戦後、建物周辺でバラック小屋で住み着いた戦災市民たちから自然に上がった名前で、いつしか原爆ドームの名が市民の間で定着していました。
戦後復興がすすむ日本で、ドームを見る度に戦争の脳裏から離れないという声から、取り壊しをという議論も上がる中、一歳の時に広島市で被爆し、16歳で放射性被爆からの急性白血病で亡くなった女学生が、
【~あの、いたいたしい産業商れい館だけがいつまでもおそる(恐ろしい)げん爆を世にうったえてくれるだろうか~】
という日記を遺したことが転機となり、戦争と原爆、核兵器の惨禍を永久に忘れない人類への警鐘を鳴らすシンボルとして、永久保存することが決まりました。
追記 (ぼく個人の考えです。)
やむを得ないこととは感じますが、
人は日々の生活に追われ、また、
世の中で起きた惨劇さえ、風化し、
時の流れのなかで忘れられやすいものとかんじます。
先月起きた安倍晋三元総理大臣への殺害も、
そうかも知れません。
安倍晋三元総理の殺害現場の奈良市の大和西大寺駅前は現在 道路建設中です。
このまま建設工事が終わり、道路の開通の運びとなれば、日常の雑踏に埋もれ行くでしょう。
銃撃現場の保存、もしくは慰霊碑の設置をぼくは望みます。