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日本歴史紀行

歴史紀行 84 奥州 藤原氏〜無量光院跡 












無量光院跡
岩手県 西磐井郡 平泉町 花立



東国の覇者が鎌倉殿として担がれた源頼朝なら、奥州十七万騎を擁し、広大な穀倉地帯を有し、多くの金山からなる莫大な経済力をもって君臨したのが奥州藤原氏です。


主に藤原三代とも、滅亡させてしまった泰衡を加えて藤原四代とも称される奥州藤原氏については、藤原氏曾祖まで遡るとなると、藤原氏はともかく、親類縁者を広く見ると、安倍氏、清少納言をも輩出した清原氏、平将門の乱に関わる平氏、後に西行法師をも輩出する佐藤氏と多岐複雑に絡むことから、いずれ別記事にて…ここでは、源義経、頼朝に関わる前の初代、藤原清衡から始めます。


奥州藤原氏の繁栄は、朝廷からは私闘と見なされた後三年の役で八幡太郎 源義家と共闘した藤原清衡から始まりました。


藤原秀衡の祖父にあたる人物です。


平安初期の征夷大将軍 坂上田村麻呂と蝦夷の長、阿弖流為(アテルイ)との戦い以降、都の朝廷に対し、度々反乱を起こす陸奥国の勢力は各地に居ました。


陸奥の奥六郡を領有していた安倍頼時が反乱を起こし、討伐に出陣して来たのが源頼義、義家の父子でした。


陸奥守兼鎮守府将軍の源頼義の討伐軍に味方する者、反乱した安倍頼時に味方する者との間で
激しい戦いが始まりました。


前九年の役です。

一族親類間の凄まじい潰し合いの果てに藤原清衡の父、経清は前九年の役の首謀者の一人として斬首され、残された母と子の清衡は仇敵の猛将、清原武則の子、武貞に慰み者同然に再嫁させられ、さらに前妻の子が居り名を真衡、後に武貞と母の間に子が生まれ名を家衡と言いました。

この清衡の母の再嫁から始まった異父弟、同母弟との複雑な兄弟が関係を破綻させた時、後三年の役へと繋がることになります。


敵味方関係なく、勇猛果敢な大将として畏怖された八幡太郎義家により清原氏の内紛〜後三年の役は鎮められ、幼少期に艱難辛苦、悲惨を極め、義弟に妻子を殺された清衡が八幡太郎義家に救いを求めた末に生き残り、奥六郡を拝領する結末になりました。


犠牲の末に新たな奥州の覇者となった清衡は、安倍氏が蜂起し、滅亡に留まらない後の代まで巻き込んだ一族親類の争いを断つべく、都の朝廷や中央との繋がりを絶やさぬ細心の配慮をもって経営にあたりました。


平等院鳳凰堂
京都府宇治市





晩年、清衡は奥州の平和を願い中尊寺を創建、その子、基衡も父の遺志を継いで都との繋がりを常に気に掛ける細心さをもって繁栄を拡大し、極楽浄土を模した毛越寺を創建、そして三代目、秀衡は宇治の平等院を模した大伽藍を創建、名を無量光院としました。





 


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