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街道紀行 1 日本橋 ~東京都中央区~
日本橋は、1603年 慶長8年 2月12日、江戸に幕府を開いて征夷大将軍となった徳川家康が、将軍職補任から約一カ月の慶長8年 3月3日、全国への道路網の整備を命じ、朱印状を発行し、その基点として木造の太鼓橋(アーチ橋)が掛けられました。
これが日本橋の始まりで、翌年には、五街道~東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の整備が進められます。
将軍の朱印状によって各宿場に伝馬の常備を義務付け、道幅を広げて宿場を整備し、一里塚を設けるなどの街道の整備を着々と進め、砂利や砂を敷いて路面を固めたり、松並木を植えるなどが行われました。
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麒麟の像
阿部 寛さん主演の映画〜麒麟の翼〜に登場した想像上の動物像
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各街道が五街道として定められたのは、徳川幕府(江戸幕府)2代将軍の秀忠の代になってからのことで、1604年(慶長9年)に日本橋を五街道の起点として定め、幕府安泰のために江戸を防衛することを目的として、街道の要所に関所を置いて通行人を取り締まりました。
徳川秀忠は、政治的・軍事的に重要な五街道を幕府直轄とし、一里(約4 km)ごとに一里塚を築いて、街道沿いに並木(主に松)を植えることを命じました。
街道沿いに街道は、東海道、日光街道(日光道中)、奥州街道(奥州道中)、中山道、甲州街道(甲州道中)の順に整備され、1659年(万治2年)以降は新たに設置された道中奉行の管轄に置かれます。五街道の正式名称が定められたのは1716年(享保元年)と、街道整備が進められて百年以上が経過してました。
南北に架けられた日本橋からは南へ、東海道と甲州街道が重複し、日本橋から北へは、奥州街道・日光街道、中山道が重複して伸びて、浅草橋で奥州・日光街道と中山道とに分かれます。奥州街道と日光街道の分岐点はさらに遠く北にあり、宇都宮で分かれます。
五街道の第一宿場である品川宿(東京都品川区)・内藤新宿(東京都新宿区)・板橋宿(東京都板橋区)・千住宿(東京都足立区)は日本橋から2里(約8 km)以内の所にあり、「江戸四宿(えどしじゅく)」とよばれ江戸の玄関口となりました。
日本橋が全国の道路網の基点としての扱われ方は、明治時代になってからも変わりませんでした。