宇須岸館跡
北海道函館市弥生町
若狭国守護、武田家の嫡男でありながら、跡目相続から外された武田信広。
廃嫡による幽閉、または暗殺の危機を察知した信広は信頼する僅かばかりの供回りを引き連れて若狭を出奔したのが1451年、宝徳3年3月28日のことでした。
道中、この時代の戦乱の引き鉄ともなった足利将軍家を輩出した下野国、足利郷を抜け、さらに陸奥(〜みちのく、現在の東北地方)まで足を延ばし、陸奥国 三戸(現在の青森県南部)の南部氏に客将として寄寓し、さらに南部氏と敵対する安東氏にも寄寓します。
この安東氏、現在の秋田県から青森県を本拠地として後の戦国時代を迎える武家で、当時は十三湊を押さえて交易により利益を得ていました。
その影響力は津軽海峡を越えた蝦夷島(現在の北海道)南部にまで及び、海岸線に12もの館を構えていました。
宇須岸河野館跡
安東政季に従い蝦夷島に上陸した河野政通は東西35間(約63m)、南北28間 (約50m)に及ぶ館を建築したと伝えられ、四方に土塁を築き、 乾壕をめぐらしました。
この館がまるで箱の形をしていたことから、箱館と呼ばれ、この名称が明治維新まで使われ、函館市と改称されるのは明治3年のことでした。
客将としての暮らしから3年ほど、武田信広は
安東政季に従って、 河野政通らと蝦夷地に渡来します。
信広は西の上ノ国方面へ、河野政通は宇須岸(現在の函館市)へたどり着きます。
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