〜わしが悪かった。
天正十年三月、
甲斐武田氏が滅び、織田信長により駿河一国を与えられた家康。
かつて少年時代を人質として過ごした駿府を、今度は新領主となり民情の視察を兼ねて巡回していました。
すると、安倍川で巨大な鉄釜を見つけました。
それは、(人煎り大釜)と呼ばれる恐ろしげな甲斐の処刑用の道具で、釜に入れた人間を煎り殺すという残酷な手法で、武田領内の法を犯した者を処罰するというもので、武田信玄が駿河へ侵攻した際に、持ち込んだものでした。
武田信玄の置き土産とみた家康は、後で浜松へ送る様に奉行に命じて帰りました。
翌日、武田の人煎り大釜を奉行が多くの人夫を集めて運ぼうとしたために、多くの見物人が群がり、騒ぎになっていました。
そこへ、安倍川の騒ぎを耳にした侍が馬で駆けつけました。
その侍とは、
隻眼、指の何本かは欠損、脚も少々不自由であるものの、剛毅で三河中の名のある侍が一目置く岡崎三奉行の一人、本多作左衛門重次でした。
その大釜を何処へ送るのか問う作左衛門に、奉行は〜殿の命により浜松へ送るところですと答えました。
作左衛門は、殿の命でも構わん、この場で大釜を砕けと奉行に命じます。
奉行も苦慮し、人夫たちも何もしようともせずにいるので、作左衛門は人夫の一人が手にしていた鉄槌を奪い取ると、力いっぱい振り下ろします。やがて人夫たちも加わって砕きにかかり、信玄の煎り大釜は粉々になってしまいました。
仕事を奪われた格好の奉行は家康に報告します。
家康は、わしの命をなんだと心得てるのだと激怒し、作左衛門を浜松城へ召し出す様に命じました。
居並ぶ家老たちも、鬼作左と聞こえた武辺者も、殿の逆鱗に触れたと思いました。
奉行は恐る恐る作左衛門から殿への口上を言い出します。
〜浜松へ帰り、大殿へ申せ。領内で大釜で煎り殺す罪人ができる様では、大殿が天下国家を治める事など、とても片腹痛し。そう嘆いて作左衛門が砕き壊したと〜
翌日になり、作左衛門が登城し、大広間に現れました。
作左衛門は悪びれず、押し黙ったまま。
家康は先に口を開きました。
〜わしが悪かった〜
〜作左衛門、その方が煎り大釜を砕き壊した折の顛末、わしへの口上、奉行から受けた。
わしの大変な思い違いであった。申す通り、
あのような物を用いる様では、天下国家の政(まつりごと)など、とても出来ぬ。かたじけなく思うぞ…〜
家康は作左衛門を許すどころか、居並ぶ家老たちの前で謝罪して見せました。
一筆啓上の碑
本多作左衛門重次が長篠合戦の陣中から妻へ書いた手紙。
日本一短い手紙として有名。
本多作左衛門重次については、徳川家臣紀行で取り上げます。