建武3年3月2日(1336年4月13日)
足利尊氏、多々良浜の戦い 反抗の凱歌
1331年 元弘元年 、鎌倉幕府を倒して天皇親政による政治を目指す後醍醐天皇による鎌倉倒幕の挙兵により、呼応した河内の土豪 楠木正成は、鎮圧に襲来した数十万もの鎌倉幕府軍を河内 金剛山に築いた赤坂城で迎え撃ち、大木に岩石、さらには熱湯や糞尿まで浴びせるといった奇策で散々に翻弄しました。
赤坂城の戦いは、やがて水脈を断った幕府軍が勝利しますが、楠木正成は巧みに脱出、翌年に潜伏していた後醍醐天皇の皇子 、護良親王が挙兵した際に再度挙兵し、またも金剛山で幕府軍を釘付けにしている最中に播磨の赤松則村、伊予の土居通増、肥後の菊池武時ら、西国の武将が次々と反幕府を掲げて独自の戦いを開始、幕府は清和源氏の血をひく足利尊氏を派遣します。
尊氏は丹波の所領の篠村にまで来ると、反幕府の態度を鮮明にし、幕府討伐の綸旨を後醍醐天皇から授かって大義名分を手にします。
これに驚愕したのは、鎮圧の切り札として尊氏を派遣した鎌倉幕府と全国各地の雌伏する武士達でした。
丹波篠村を出陣した尊氏の軍勢は京における幕府の拠点である六波羅探題を壊滅させ、畿内の幕府勢力を一掃しました。
尊氏の挙兵、六波羅の勝利の報を受け、北関東 上野(こうずけ、現在の群馬県)で挙兵した新田義貞が幕府に不満を持つ将兵らを加えながら鎌倉を目指し、武蔵 分倍河原(ぶばいがわら、現在の東京都府中市)で幕府軍を蹴散らして南下しました。
幕府は本拠地 鎌倉で必死の防衛を試みるも、大軍に膨れ上がった新田義貞の軍勢を押さえきれず、幕府執権の北条一門は次々と自害して果て、約150年続いた鎌倉幕府はここに倒れました。
幕府滅亡の報を聞いた尊氏は、無政府状態の京の市内に奉行所と称して私設の拠点を設置し、戦功のあった将兵に恩賞を与え始め、彼等によって尊氏の声望は一気に高まりました。
倒幕により、念願の天皇親政を実現すべく京に戻った後醍醐天皇は政権作り、~建武の新政~に着手しますが、新政権は政治感覚の逸脱した公家一統によるごく一部が恩恵に預かれる政権で、新時代の到来を期待した武士、民衆らの失望は急速に高まりました。
1335年 建武2年、鎌倉幕府執権 北条高時の遺児、北条時行が挙兵して鎌倉を占拠して中先代の乱が勃発、尊氏は征夷大将軍の任命を要請しますが後醍醐天皇は拒否、尊氏と天皇は対立が決定的となり、尊氏は自らを征東将軍を名乗り、鎌倉を奪還して京への帰途、天皇の命を受けた新田義貞の襲来を退けるも奥羽(東北)で力をつけた公家武将の北畠顕家の追撃の前に敗北して西国に逃れます。
敗走しながらも備後 鞆の浦で光厳上皇から院宣(上皇の発行する天皇の宣旨以上の価値のある文書)を得て、九州で捲土重来を誓った尊氏は少弐氏、島津氏といった建武の新政に不満を持つ地元武士の軍勢を配下に加えたことにより、天皇の勤皇党 菊池氏らの軍勢との対決は避けられなくなり、博多、多々良川を挟んで両軍勢がにらみ合いました。
多々良浜の戦い
1336年 建武3年、延元元年 3月2日、
多々良浜の戦いが勃発します。
大軍勢を頼みに正面攻撃に徹する菊池軍を赤坂の丘から地の利を生かして高地から低地に攻め下ろす尊氏軍に苦戦する菊池軍に更に北西からの浜風が暴風の様に吹き荒れ、風下の菊池軍は混乱し、さらに戦況不利とみた菊池軍傘下の松浦、神田党が寝返り、菊池軍を背後から襲い勝負が決しました。
戦勝からひと月、尊氏は敵勢力を一掃して九州全土の将兵を味方につけて一路 京を目指します。
5月25日、その東上の湊川で楠木正成を破り京に入り、後醍醐天皇は比叡山に逃れます。
11月、入京から半年、尊氏は京に光厳上皇を迎え、上皇は即位して光厳天皇となり、室町幕府を開きますが、後醍醐天皇は大和 吉野山に逃れたことにより南朝となり、幕府の推す北朝と、二つの朝廷が興る異常事態は約30年続きます。