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日本歴史紀行

歴史紀行 地域版 80 - 5 札幌市開祖 志村鉄一碑、吉田茂八碑 5


札幌市開祖 志村鉄一碑

札幌市開祖 志村鉄一邸宅跡


札幌市開祖 吉田茂八碑

豊平川


志村鉄一と吉田茂八
この二人をご存知でしょうか。
志村は信濃出身の剣客、吉田は猟師として生き、縁あって現在の札幌、豊平川の渡守として札幌に住む住民となりました。




1867年慶応3年10月15日
徳川第15代将軍 徳川慶喜が朝廷に政権を返上した大政奉還により、朝廷は天皇親政の政権を目指し、薩摩、長州を中心とした旧外様大名の西国諸藩の有力藩が主導する格好で王政復古の大号令が発令され、徳川家排除の政権、明治新政府が誕生します。

江戸市中で薩摩藩が暗躍して殺人、強盗、放火といった犯罪行為を次々と起こして幕府を挑発し、江戸市中を警護した庄内藩が薩摩藩邸に攻撃したことから幕府と薩摩藩が衝突、京で鳥羽伏見の戦いが勃発、戊辰戦争の始まりとなります。

この戦いで敗れた幕府は3ヶ月の後、江戸無血開城を行い、江戸時代は終わりを迎えました。

翌年の明治2年、幕府海軍総裁 榎本武揚が率いた旧幕府軍が箱館まで戦争を続けるも降伏、明治新政府による北海道開拓の動きが始まります。

通行屋、渡守を続けてきた志村鉄一と吉田茂八の元に明治新政府の役人として佐賀藩士で開拓判官の島 義勇(しま よしたけ)がやって来ました。

江戸から北海道、箱館へ上陸した島は、海路で小樽銭函で降り、かつて志村、吉田らが開削した札幌越新道を通ってやって来ました。

島は無情にも志村に渡守としての役を解き、通行屋の建物の解体させ、札幌本府を建てるための建材とする様に命じます。


志村が頼るべき荒井金助も箱館に去り、去った先で荒井金助は後任の奉行と折り合いが悪く箱館からも追われる中で熱病を発症して五稜郭の堀に落ちて亡くなるという悲劇的な最期でした。

幕府、箱館奉行 石狩調役の荒井金助に召し抱えられた志村鉄一と、足軽の従僕として仕えてきた猟師の吉田茂八とは、同じ通行屋、渡守でも区別され、幕府の影響を排除したい明治新政府の意向もあり、こうした仕打ちにも近いやり方にも耐え、志村は解体した建材を北海道開拓使、札幌本府の仮役場として引き渡しました。

役も住居も失った志村鉄一は妻子を連れ、かつての知り合い、僧の美泉定山を頼ります。


美泉定山は、備前国〜現在の岡山県の出身の曹洞宗の僧で、江戸時代後期に布教活動で蝦夷地へ渡り歩く中、北上して小樽にたどり着き、小樽の東、張碓(はりうす)で湯治場を営む中で石狩に来た志村と知り合いました。


志村は全国を巡り歩いてきた美泉定山と親しくなり、やがて美泉定山は札幌の奥地でさらに温泉の源泉を発見して僧と湯守の二足の草鞋として生きてゆくことになります。

美泉定山の発見した温泉は札幌の奥座敷、【定山渓温泉】として広く知られています。

志村が妻子を連れて美泉定山の元で暮らして間もなく、さらに志村を驚かせる出来事が起こります。


6に続きます。







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