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日本歴史紀行

紀行道中 2 - 3 蓬莱橋(ほうらいばし) 3


牧之原大茶園


蓬莱橋 3

今井信郎の様に様々な過去をもった幕臣達が刀から鍬に持ち替え、不毛の台地とされていた金谷原を必死に開拓し、中條金之助景昭も彼らをよく束ねました。


明治3年4月、藩主 徳川家達は、藩領の志太(現在の藤枝市)、小笠(現在の菊川市)、榛原(現在の牧之原市)といった藩領西部への視察に出かけ、その道中で堤防工事中の大井川に足を延ばし、金谷原の谷口原で開拓する中條金之助景昭を訪ねました。

金之助景昭は驚き、藩主 家達のお供として台地を案内します。

家達は視察後の休憩で、【農は里の宝、向こうの山は宝の山、皆で力を合わせ、宝の山を切り開けよ。】と谷口原を指し、景昭を激励しました。

景昭は厳しい環境の中、仲間達と力を合わせ、茶葉の栽培と台地の開墾に励みました。

明治も10年も過ぎる頃、開拓も少しずつ進み、農民達も何とか生活用品を買える程度になり始め、農民の一部から、渡河の度に危険な大井川を越えなければならないため、橋を掛けてもらえないかと、県令(廃藩となり静岡県となる、県令~現在の知事職)に願いを出し、翌 明治11年12月に許可が降りました。





橋は急ピッチで工事が進められ、1ヶ月あまりで完成を見ました。

完成後、橋を命名するということになり、様々な意見が出る中、【藩候が谷口原を宝の山とおっしゃったことがある。それに因み、蓬莱橋にしたらどうか。】と言った者が出ました。

皆がそれがいいだろう。と話がまとまり、蓬莱橋と命名されました。

話を切り出したのが、金之助景昭だったかのかは、定かではありませんが、金之助景昭は遡る明治7年に明治政府から台地の開拓での統率力を買われ、神奈川県令(現在の神奈川県知事職)へと打診されましたが【わしの身は茶畑の肥やしにする】と一笑に伏しました。


橋から台地へと通じる蓬莱峡

タヌキ?も見守ります

道中には毘沙門天など、七福神が見守ります。



現在の牧之原大茶園

中條金之助景昭 像
牧之原台地を見守る様に立っています。


茶の花

牧之原台地開拓記念碑
中條金之助景昭や今井信郎の名前もあります。


ギネスブック認定碑
全長897.4メートル、通行幅2.4メートルの木造歩道橋として世界一の長さを誇り、平成9年にギネスブックに認定、登録され、現在も人々が往来します。



蓬莱橋ライトアップ










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