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川坂屋
静岡県掛川市日坂
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箱根、鈴鹿、小夜の中山…この三つは
それぞれ急峻な峠を擁することから、
東海道の三大難所と呼ばれました。
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小夜の中山 久遠寺
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小夜の中山 山頂に創建された久遠寺は、奈良時代に行基菩薩が造営したと伝わります。
平安時代には、清少納言が日坂に隣接する古社、事任八幡宮を歌に詠み。
八幡太郎 源義家が庶子、横地太郎と父子の対面を果たし。
高名な歌人で僧侶の
西行法師は生涯に二度、小夜の中山を往復。
二度目の往復では、平重衡の焼き討ちにより灰燼に帰した東大寺の再建のために鎌倉への勧進の旅でした。
小夜の中山の西の峰に位置する日坂宿は、古来から小夜の中山を越える人、越えてきた人、それぞれを受け入れる集落として貴重な役割を果たしました。
1600年(慶長五年)、新領へ帰国後、上洛に応じない会津の上杉景勝に叛心ありとして討伐することが直接の発端となった関ヶ原の戦い。
大老の徳川家康は、大坂を発って江戸へ向かう道中、小夜の中山を越えました。慶長五年6月24日頃のことです。
当時の領主は山内一豊。
豊臣恩顧の最古参大名ながら、中老職に出世した朋輩、堀尾吉晴や中村一氏と共に徳川家康に接近し、家の安泰を計った一豊は、急峻な峠を越える家康のために、久遠寺に茶亭を設けて饗しました。
家康が五家老の近江、水口城主、長束正家の領内を通った際は、正家の叛心を疑って宿泊せずに深夜に城下を駆け抜ける行動に出たほど、豊臣恩顧の大名に対する家康の対応には違いがありました。
山内一豊は、後の小山評定において、西上する徳川家康のために掛川城を明け渡して信頼を更に集め、関ヶ原戦勝の論功行賞において、土佐一国の太守に任されました。
徳川家と豊臣家による最後の戦い〜大坂の陣。
この戦いに勝利した徳川家康により、江戸時代は長く泰平の世を迎えます。