榎本武揚 像
北海道小樽市稲穂町
小樽駅から西へ徒歩で約3分、
江戸城無血開城による戊辰戦争降伏を良しとせず、幕府艦隊を率いて仙台、宮古と戦い、北の大地に蝦夷共和国を樹立し、幕臣らの受け皿とする理想の国を作ろうとし、箱館戦争を率いた榎本武揚の像が彼自身が創建した小樽 龍宮神社に立ちます。
榎本武揚は、敗色濃厚となった戦局で、肌身離さず携えていた日本でただ1冊の海律全書を戦火で灰にするには忍びないとして新政府軍を指揮した黒田清隆に贈り、黒田は酒樽と肴を答礼に贈り榎本の心意気に応えました。
榎本は自刃を決行をするも、察知した部下に止められ、新政府に投稿。
新政府軍の黒田清隆が剃髪し、必死の助命嘆願により一命を助けられ、禁固刑に留まりました。
恩赦により勾留を解かれた榎本は、黒田の右腕として北海道開拓使に赴任、開拓の礎を担い、後に初代伊藤博文内閣の通信大臣をはじめ、農水相、外相と薩長閥が跋扈する内閣で異例の立身を遂げました。
小樽は開拓本府の置かれた札幌に近く、港湾都市として江戸時代より栄えました。
榎本は、札幌の隣の対雁(ついしかり~江別市)に農場、小樽には土地管理会社 北辰社を設立して小樽市内中心部の再開発に着手しました。
かつてアイヌの祭礼の場だった小樽 稲穂の地に海の守神として龍宮神社を創建しました。
あまり知られていませんが、蝦夷共和国を樹立した際に、入札(投票)により総裁を決定した経緯から、日本初の選挙による首長を決めるものでした。
追記
前 財務大臣の麻生太郎氏が植樹したオンコの木が榎本 像の前にあります。