小樽運河
小樽市色内1丁目~3丁目
北海道の物流の玄関口として発展した小樽市は、1904年 明治38年~1905年 明治39年の日露戦争後に樺太【サハリン】方面への物流拠点となり、運河の着工が急務となり、9年の歳月をかけて小樽運河は完成しました。
さらに1914年 大正3年~1918年 大正7年の第一次世界大戦中にヨーロッパ方面への小麦等の穀物類輸出で賑わいました。
小樽沖に停泊する船舶と運河沿いの石造倉庫を繋ぐのが艀(はしけ)です。
大正時代には海上沖の船舶と倉庫を約300艘の艀が行き来して積荷を運び、運河周辺は大変賑わいました。
やがて昭和時代になると、船舶は港に接岸して積荷を集積出来る様になり、運河の荷役は大きく衰退してしまい、運河の埋め立てが議論され始めると、小樽運河の景観を守るべきと、埋め立て反対運動が大規模になります。
この運動の結果、行政側と反対派 双方の妥協として、当初の予定の半分の埋め立てで折り合いがつきました。
その後
残った運河は、様々な観光イベントの発信拠点となり、現在、小樽市のみならず北海道を代表する観光スポットとして認知され、国内外から多くの観光客が訪れています。