乃木大将と辻占売少年像
東京都港区赤坂8丁目 乃木神社
乃木将軍の第3軍、旅順要塞 203高地の攻防
明治37年8月、陸軍は乃木希典将軍率いる第3軍に旅順要塞攻撃を指示します。
鉄条網とコンクリートに守られたロシア軍の要塞は堅固な上に機関銃も装備され、第1回、第2回の攻略は失敗。
第3軍は1万名以上の大量の死傷者を出しながら要塞西部の203高地(爾霊山)の攻略へと変更し、激戦の末に奪取しました。
203高地の占領後、弾着観測が可能となり、旅順港内のロシア旅順艦隊を壊滅せしめ、旅順要塞の司令官ステッセルは降伏しました。
戦闘後、乃木将軍とステッセル中将との間で会見が行われ、旅順港は開港されました。
会見の席で乃木将軍はステッセル中将とロシア将校を敬意をもって辱めることなく帯剣を許し、ステッセル中将は、作戦中に戦死した乃木将軍の子息の死に哀悼の意を表しました。
黄海海戦
明治37年8月10日、
乃木将軍率いる陸軍第3軍が旅順要塞攻略を始めようとしていた ほぼ同じ頃、海軍連合艦隊は、旅順を脱出して黄海海上に姿を現したロシア旅順艦隊を発見しました。
黄海を南下してウラジオストクに向かうと見た連合艦隊は、追撃して激しい砲撃戦となります。
追撃されていたロシア旅順艦隊は攻撃を三笠に集中し、三笠は約20発もの敵砲弾を受け、そのうちの一発は後部主砲に命中して主砲が破壊される甚大な被害となりました。
この被害の際、皇族軍人である伏見宮博恭王殿下が負傷しています。
三笠以下の連合艦隊は、被害を抱えながらもロシア旅順艦隊を7時間あまり追撃し続けますが、撃沈には至りませんでした。
この黄海海戦での三笠の戦死者は33名、負傷者83名を出し、この被害は、大海戦となる日本海海戦より大きな被害となりました。