旗艦 三笠 主砲
上部砲門〜40口径3インチ速射砲
下部砲門〜40口径6インチ副砲
仁川沖開戦
日露戦争が開戦となり、日本が大国ロシアに勝利するためには、最前線の満州で戦う陸軍の兵員や、弾薬等の兵站補給を速やかにに行う必要がありました。
そのためには、玄関口である旅順港のロシア太平洋艦隊の動きを封じ、その上で日本海の制海権を握ることが重要でした。
大本営は日本海軍に陸軍部隊の輸送とロシア太平洋艦隊の壊滅を指示、まず、瓜生少将率いる海軍第4戦隊が仁川(いんちょん)港へ陸軍部隊を輸送します。
開戦から2日目の明治37年2月8日、海軍第4戦隊は、陸軍部隊を仁川(いんちょん)に上陸させた後、停泊中のロシア巡洋戦艦ワリヤーグ、戦艦コレーツを発見、期限を通告して仁川港からの退去を命じました。
その後、ワリヤーグとコレーツは第4戦隊と仁川沖で戦闘になり、第4戦隊は2隻に甚大な被害を与え、両艦は自沈。
この戦闘が日露戦争、日本海軍最初の戦闘となりました。
旅順口閉塞作戦
日露戦争海戦史で、日本海海戦と共に困難を予想されたのが旅順口閉塞作戦です。
旅順(りょじゅん)口閉塞作戦は、連合艦隊参謀の有馬良橘中佐が、アメリカ、スペイン戦争(米西戦争におけるサンチャゴ皆閉塞作戦を参考にして計画立案したもので、約90メートルの旅順港の水路に船を沈めて航路を塞ぎ、港内のロシア艦隊を封じるというものでした。
東郷平八郎司令長官は、危険を伴う作戦であることから、志願者を募り、結果、多くの志願者が出たことから隊員を選抜して作戦を実行します。
こうして閉塞作戦は計画されますが、ロシア側の反撃もあり、初回で完全に封鎖することはできません。
第2回の閉塞作戦では、軍神として語り継がれる広瀬中佐が指揮します。
旅順港閉塞作戦〜軍神 広瀬武夫少佐
旅順港閉塞作戦は、日露戦争初期の重要な作戦でした。
明治37年2月18日、第1次旅順港閉塞作戦では、海軍が自軍の艦を沈めさせることの出来たのは、作戦に参加した5隻中わずか1隻、報国丸のみ。
しかも報国丸が自沈したのは、旅順港対岸の老虎尾半島側で、第1次閉塞作戦は文字通り失敗とされました。
第2次旅順港閉塞作戦では、初回の閉塞作戦で報国丸を指揮して唯一、自沈させることの出来た広瀬武夫少佐(後に中佐)が福井丸に座乗して指揮を執り、旅順港へ迫りました。
ロシア軍の要害と化した旅順港からは、機関銃と砲撃を受けながら広瀬少佐は福井丸を自沈させることが出来ました。
しかし、沈みゆく福井丸を離れた広瀬少佐は、部下の杉野上等兵の姿が見えないことに気付き、沈みつつある福井丸に戻り、船内をくまなく捜すこと三度、杉野上等兵を見つけることは叶わず、やむを得ずボートで離船した際に砲撃を頭部に被弾し、広瀬少佐は戦死しました。
広瀬少佐の勇敢で責任感ある行動は、士官の鏡とされ、日本本土に広瀬少佐の戦死の詳細が報じられると、人々を感動させ、軍神と称されました。
ただ、広瀬少佐らを犠牲にした第2次旅順港閉塞作戦も福井丸はじめ4隻が自沈させることは出来ましたが、旅順港を閉塞させるには至らず、第3次閉塞作戦も実行されたものの、旅順港に籠もるロシア旅順艦隊の航路は依然開いたままでした。
海軍の閉塞作戦が効果を挙げないことで、大本営は陸軍を動かし、旅順港及び旅順市街を囲む様にそびえる旅順要塞を陥落せしめる旅順要塞攻撃命令を発令します。
有名な203高地の戦いです。
3に続きます。