会津藩 白虎隊士 飯沼貞吉ゆかりの地碑
北海道札幌市中央区南7条西1丁目
会津藩 白虎隊といえば、会津戦争において、鶴ヶ城から上がる火煙を城が落城したと悲観し、飯森山において、隊士が自刃をはかり、多くの若い命を散らせた会津戦争の中でも悲しい結末を迎えました。
その白虎隊で一命を取りとめ、明治の世を寡黙に生き抜いた人物が飯沼貞吉です。
会津戦争勃発時、15歳だった飯沼貞吉は、16歳以上とされた白虎隊入隊の決まりを自ら16歳だと偽り入隊。
運命の飯森山において、城下町の燃える景色に、鶴ヶ城の落城と見間違えて会津の将来を悲観し、仲間の隊士が次々と自刃を始め、貞吉も自らの喉を突き刺して自刃を計りました。
丁度、飯森山に我が子を探しに入ってきた足軽の妻ハツが、虫の息の貞吉を発見し、戦場から運び出しました。
ハツは、戦闘を避けて米沢に逃れる長岡藩医に貞吉を治療してもらい、藩医の適切な治療もあり、貞吉は一命を取りとめました。
貞吉は、自刃を計った隊士唯一の生き残りとなり、終戦を迎えました。
会津藩降伏の後は、東北諸藩の年少兵たちと捕虜の身となりますが、彼らを引率した長州藩の中堅幹部、楢崎頼三の目にとまり、見所のある若者として、楢崎頼三は貞吉を長州へ連れ帰り、自決の思いを秘めていた貞吉を、これからの世は会津も長州もない、国のために生きよと諭し、貞吉の心身の傷を癒やし、学ぶ手助けをしました。
維新後、貞吉は、通信技術者の道に進み、明治政府工部省の最下級の役職ながら全国各地で通信技師として赴任して歩き、寡黙に勤務を続け、明治20年になり、通信省本省公務局第一課長。
次いで明治24年 広島電信建築局建築課長 と出世。
明治27年に日清戦争が開戦すると、大本営付きとなり、朝鮮へ派遣され、釜山において敵中の銃弾の飛び交う中で通信網を完成させて、勝利に貢献し、日清戦争勝利の第一報は、貞吉を中心とした技師たちの構築した通信網により日本に伝えられました。
この通信網架設の際、同僚技師から〜危険なので、一旦避難しましょうと持ちかけられるも、私は戊辰の役の際、飯盛山で一度死んだ身ですからと笑い、気にもとめなかったそうです。
戦後、貞吉は日清戦争の功績を認められ、勲七等の勲章と金一封を贈られ、高等官七等として叙任されました。
明治38年に札幌郵便局工務課長として北海道、札幌市へ妻子を伴って来道し、役5年間 北海道の電話通信網の発展に貢献し、明治43年に辞令を受け、仙台へ移動しました。
石碑の場所は、昭和の時代は電電公社〜現在のNTTが近年まで社員寮があった地で、古くは政府工部省通信院の寄宿舎があった地で、貞吉が妻子と共に札幌で暮らした地 といわれてます。
日清日露戦争が終わり、束の間の平和の時代を迎えた日本で、北海道の通信網の礎を築いた一人が飯沼貞吉です。