箸墓古墳
奈良県桜井市
〜赤い糸〜
赤い糸は運命の赤い糸と呼ばれ、男女が結ばれるべく、その絆を表すときに用いられますね。
赤い糸の伝説は、中国や東アジアにも諸説ありますが、それらよりも遥か昔に編纂された古事記に記された赤い糸について書きます。
赤い糸〜はじまりの社へ
三輪山
桜井市 赤糸の小道周遊ルート
大神神社拝殿
古 事 記から
古事記に記られた三輪の赤糸伝説が〜運命の赤い糸〜の起源とされます。
活玉依姫(いくたまよりひめ)
古事記 〜崇神朝期・赤糸伝説の由来〜
崇神天皇5年、(紀元前93年~皇紀568年)
崇神帝の御世に、疫病が蔓延し、多くの民が死に絶えそうになった。
帝は嘆かれ、神床(かむとこ、神の御心を知るために、心身・寝床を清めて)お休みになられ
た夜に、大物主大神が夢に現れられて〜私が疫病を蔓延させているのだ。もし、意富多多泥古(おほたたねこ)に私を祀らせるならば、神の祟りである疫病が鎮まり、国も平安になるだろう〜と仰せられた。
そこで帝は早馬を使って、国中に意富多多泥古を探させ、河内之美努村(かわちのみののむら)でようやく意富多多泥古を見つけ出して宮廷に連れてきた。
帝は意富多多泥古に〜あなたは誰の子か〜と尋ねられると、意富多多泥古は〜大物主大神が
陶津耳命の娘の活玉依毘賣(いくたまよりびめ)を娶って生まれた御子が櫛御方命であり、
その子が飯肩巢見命であり、その子が建甕槌命であり、その子が私、意富多多泥古です〜と申し上げた。
これを聞かれた崇神帝は大変お喜びになり、〜天下は安定し、民は栄えるであろう〜と仰せられた。
意富多多泥古命を神主として、御諸山・意富美和之大神前として大物主大神をお祀りした。
また、伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に命じて、天之八十毘羅訶此三字以音也(
〜あまのやそびらか〜多くの祭壇にお供えする底が平らな瓶)を作らせ、天神地祇の社を定め、お祀りした。
また、宇陀墨坂神(宇陀墨坂神社)に赤色の楯と矛をお供えし、大坂神(香芝市逢坂)に黑色の楯と矛をお供えしてお祀りした。
坂之御尾神と河瀬神のすべての神々にもれなく、幣帛を奉納した。すると、疫病は鎮まり、国は平安となった。とあります。
古事記〜三輪の赤糸伝説、活玉依媛売
意富多多泥古が神の子であると解ったのは次のようなことからである。先に書かれている活玉依媛売は美人であった。
そこに、古今東西随一の美男子の若者がいた。
夜中にその若者が現れて、二人は互いに好きあい共に過ごした。
やがて娘は身篭った。娘の父母は妊娠をいぶかしがり、「おまえは夫のいないのになぜ身篭ったのか」と尋ねた。
娘は「素性は知りませんが、立派な若者が毎夜やってきて、一緒に過ごすうちに身篭りました」と答えた。
そこで、父母はその若者の正体を知りたいと思い、娘に「赤土を寝床の前に撒いて、糸巻きに巻いた麻糸)を通した針を若者の着物に刺しなさい」と教えた。
娘は言うとおりにして、翌朝 調べてみると、針に刺した麻糸は、戸の鍵穴を通りぬけており、残った麻糸は三巻きであった
鍵穴を通った麻糸を辿っていくと、美和山(みわやま、三輪山)の神社に続いていた。
このため、娘の子はその神(大物主大神)の子と解ったのである。また麻糸が三巻き残ってい
たので、その地を美和(みわ)と云う。この意富多多泥古命は神君(かみのきみ)・鴨君(かものきみ)の祖である。
櫛御方命(鴨君)神武天皇の妃、五十鈴姫の兄
飯肩巢見命(建御雷神、たけみかづちのみこと)〜鹿島神宮主神
三輪の苧環(おだまき)塚
赤糸の小道ベンチ
古事記に大物主大神と活玉依姫(いくたまよりひめ)の恋物語が記されています。
この物語は大神神社の初代の神主である意富多々泥古(おおたたねこ)の出自を述べるところで記されていますが、糸巻きのことを苧環(おだまき)とも呼び、糸をたよりに相手の正体を探るという説話は苧環型と言われて、似たような逸話が全国各地にあります。
オオタタネコを祀まつる大直禰子(おおたたねこ)神社の入口脇に、苧環杉といわれる杉の古株が残っており、物語に登場する活玉依姫いくたまよりひめの苧環おだまきの糸がこの杉の下まで続いていたという伝説が残されています。
大直禰子神社(若宮社)
大直禰子神社拝殿
大神神社夫婦岩
大神神社
神話の伝承が神代に始まったことが大神神社の創建に明瞭に記されていることは重要なことで、また、本殿を持たず御神体である三輪山に直接拝する原始的な古社の祀りは、後の各地の神社が社殿を設ける様になった今日の世に伝わ
る形とは異なり、祭祀の姿からも最古の神社とされています。
崇神天皇5年、(紀元前93年~皇紀568年)神託により国中に蔓延した疫病を御諸山(三輪山)に大物主大神を祀ることで退散させた崇神天皇。
御神体を三輪山とする大神神社は、創建が古事記や日本書記に記される日本最古の社(やしろ)とされています。
古事記 によると、大物主大神が出雲の大物主神の前に現れ、国造りのために~倭(大和)の青垣、東の山の上に居着き祀れ~と三輪山に鎮まれることを望んだとされ、日本書記では、二神の問答で~大物主大神は、大物主神の吾(われ)は幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)であるとして、同じように三輪山に鎮まれることを望んだということです。