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元新選組 永倉新八
局長 近藤勇 息女 山田音羽対面の地
北海道 小樽市花園町
〜新選組〜
幕末に第14代将軍 徳川家茂の上洛の警護を司る浪士組の結成から始まった組織で、近藤勇や土方歳三らが隊士として応募して上洛後、壬生浪士組から新選組と変遷する過程で、近藤勇らが内部で対立し始めた芹沢 鴨ら水戸浪士一派を粛清して組織はより先鋭的、一本化され、京都守護職を司る会津藩主 松平容保(かたもり)の下で京都の治安維持を名目に活動を強化、尊王攘夷、倒幕を練る不逞浪士の多くを討ち取りました。
北海道 小樽市花園町
〜新選組〜
幕末に第14代将軍 徳川家茂の上洛の警護を司る浪士組の結成から始まった組織で、近藤勇や土方歳三らが隊士として応募して上洛後、壬生浪士組から新選組と変遷する過程で、近藤勇らが内部で対立し始めた芹沢 鴨ら水戸浪士一派を粛清して組織はより先鋭的、一本化され、京都守護職を司る会津藩主 松平容保(かたもり)の下で京都の治安維持を名目に活動を強化、尊王攘夷、倒幕を練る不逞浪士の多くを討ち取りました。
倒幕が成ると、有能な志士を数多く失った外様諸藩の恨みは新選組と彼らを支配下に置いていた京都守護職の松平容保が藩主の会津藩に向けられ、やがて幕末戊辰戦争の舞台は会津の東北地方へと飛び火します。
〜近藤勇〜
新選組局長として京都の治安維持に奔走し、隊士とと数多くの攘夷志士、倒幕の不逞浪士を討ち取り、薩摩、長州を中心とした諸藩からは特に強い恨みを買い、江戸無血開城後に新政府軍に投降するも処刑されました。
〜永倉新八〜
〜近藤勇〜
新選組局長として京都の治安維持に奔走し、隊士とと数多くの攘夷志士、倒幕の不逞浪士を討ち取り、薩摩、長州を中心とした諸藩からは特に強い恨みを買い、江戸無血開城後に新政府軍に投降するも処刑されました。
〜永倉新八〜
松前脱藩浪士の身で剣術修行中に江戸で近藤勇と知り合い、意気投合して浪士組に参加。
池田屋事件では新選組二番隊を率いて斬り込み、勇名を馳せました。
やがて新選組の名が大きくなるにつれて態度が尊大になり始めた近藤と対立することが増え、甲府城奪取を賭けた勝沼の戦いに敗れた後、近藤と袂を分かちました。
明治維新後はかつて仕えた松前藩医の婿養子となって杉村義衛を名乗り、北海道と名を改めた故郷の小樽の花園(現在の小樽市役所は永倉の住宅跡でした)に住み、薬屋を営みなから晩年を過ごしました。
永倉は孫息子と過ごすことを楽しみ、商店街や水天宮での逸話が残ります。
ある日、商店街で地元ヤクザといさかい となりますが、死地を戦い抜いて来た永倉の眼光にヤクザも怖れをなし、水天宮では孫息子に剣術を教えたりしました。
明治維新から半世紀近く過ぎた大正2年3月、永倉は小樽新聞社の記者の聞き取りによる新選組顛末期の題名で連載記事を投稿し始めます。
この投稿は、明治の世において、薩摩、長州を中心に、外様藩の手により維新を成したことから幕府親藩の会津藩主が務めた京都守護職の下で働いた新選組は、維新の大義を持った志士を斬りまくった悪の殺戮集団の如く扱われていた定説を覆し、現代でいう警察組織に当たる新選組を再評価させる一助となりました。
永倉新八による新聞連載が始まって しばらくした大正2年5月22日、新選組 近藤勇の娘で、山田音羽を名乗る女性が永倉を訪ねました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/12/38c87b4543214f210dff838a7c261c50.jpg?1640954817)
山田音羽
音羽は、近藤が局長として京都市街で暴れ回っていた時期に愛妾に産ませた娘ということでした。
音羽は女義太夫の竹本朝駒一座の演者〜芸名 綱枝太夫として北海道公演で札幌に来た際に、永倉が新聞連載した近藤の写真の存在を知り、父の写真を見せてほしいと訪ねたのでありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/b4/96307d923473c182628dec0bd298f38a.jpg?1640955358)
永倉が世に出した近藤の写真〜有名な一枚ですね。
明治維新後はかつて仕えた松前藩医の婿養子となって杉村義衛を名乗り、北海道と名を改めた故郷の小樽の花園(現在の小樽市役所は永倉の住宅跡でした)に住み、薬屋を営みなから晩年を過ごしました。
永倉は孫息子と過ごすことを楽しみ、商店街や水天宮での逸話が残ります。
ある日、商店街で地元ヤクザといさかい となりますが、死地を戦い抜いて来た永倉の眼光にヤクザも怖れをなし、水天宮では孫息子に剣術を教えたりしました。
明治維新から半世紀近く過ぎた大正2年3月、永倉は小樽新聞社の記者の聞き取りによる新選組顛末期の題名で連載記事を投稿し始めます。
この投稿は、明治の世において、薩摩、長州を中心に、外様藩の手により維新を成したことから幕府親藩の会津藩主が務めた京都守護職の下で働いた新選組は、維新の大義を持った志士を斬りまくった悪の殺戮集団の如く扱われていた定説を覆し、現代でいう警察組織に当たる新選組を再評価させる一助となりました。
永倉新八による新聞連載が始まって しばらくした大正2年5月22日、新選組 近藤勇の娘で、山田音羽を名乗る女性が永倉を訪ねました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/12/38c87b4543214f210dff838a7c261c50.jpg?1640954817)
山田音羽
音羽は、近藤が局長として京都市街で暴れ回っていた時期に愛妾に産ませた娘ということでした。
音羽は女義太夫の竹本朝駒一座の演者〜芸名 綱枝太夫として北海道公演で札幌に来た際に、永倉が新聞連載した近藤の写真の存在を知り、父の写真を見せてほしいと訪ねたのでありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/b4/96307d923473c182628dec0bd298f38a.jpg?1640955358)
永倉が世に出した近藤の写真〜有名な一枚ですね。