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日本歴史紀行

歴史 今日の出来事 1905年 明治38年 5月27日 日露戦争 日本海海戦 連合艦隊勝利 終





1905年 明治38年5月27日
午後2時10分
大海戦戦史において、敵前回頭をやってのけた連合艦隊は、バルチック艦隊の砲撃の最中に回頭をほぼ終えて攻撃に転じます。

〜撃ち方はじめ!〜
伊地知艦長の号令により、三笠の下瀬火薬の初弾がバルチック艦隊旗艦のスワーロフの甲板に命中すると、甲板上は灼熱地獄と化しました。
徹甲砲弾では無いので、艦艇を貫く威力は無いものの、ピクリン酸の引き起こす化学反応は甲板上の砲門などの構造物を火災と灼熱で使用不能とし、居合わせた兵士も焦熱の中で屍と化しました。  



先頭の三笠に次いで敷島、富士、朝日の後続する戦艦が次々と砲撃を開始。

バルチック艦隊旗艦スワーロフと続く第2戦隊旗艦のオスラビアは、海戦戦闘開始から三笠以下の4隻からの集中砲撃を受け、両艦共に惨憺たる姿に変わり果てます。 

バルチック艦隊司令長官、ロジェストウェンスキー中将の座乗艦スワーロフは、大火災と舵を操作するスチームパイプに砲弾が命中して操舵が効かなくなり、日本の正確な砲撃はスワーロフの司令塔に命中し、爆発でロジェストウェンスキー中将は頭部、背中、足首に破片を受けて重傷となり、次席司令官のフェリケルザム少将は海戦前に病死していたために指揮権委譲まで艦隊指揮官不在という異常事態に陥りました。




午後3時7分
第2戦隊旗艦オスラビアが艦首から沈没。
海戦1時間余りでバルチック艦隊は第1、第2戦隊旗艦が戦闘はおろか、指揮もできない有り様となり、陣形はことごとく乱れ、連合艦隊の砲撃の餌食となりました。






5月27日の日没までの第1合戦で旗艦スワーロフ、第2戦隊旗艦オスラビアをはじめ、7隻が沈没、ほぼ勝敗は決しました。




しかし、ロシア側は明確に降伏を示さず、反撃もしてきたことから、日没後に駆逐艦と水雷艇による夜襲を行い、戦艦2隻、巡洋艦2隻が沈没、艦隊指揮権を移譲されたネボガトフ少将が座乗するニコライ1世が態勢を立て直すべく離脱をはかりました。

東郷司令長官は、夜明けとともに残存艦隊の掃討を命じ、バルチック艦隊の残存艦4隻を包囲、ネボガトフ少将は降伏を決意しました。

また艦隊から逸れて逃走する2隻を発見、駆逐艦の接近に白旗を掲げたので駆逐艦が捕獲、艦内には艦隊司令官だったロジェストウェンスキー中将が瀕死の状態にあったので捕虜としました。

ロジェストウェンスキー中将はその後、日本に移送され、手厚い治療により快復します。

5月27、28日
日本の浮沈を賭けた日本海海戦は、戦艦6隻、巡洋艦3隻、駆逐艦など19隻を撃沈。7隻を捕獲、抑留し、主要な戦艦は全滅。
かろうじて海域から逃走した艦船は12隻ありましたが、9隻が大損傷のために沈没、自沈、目的地に到達できたのは、巡洋艦1隻、駆逐艦2隻のみでした。

この海戦でバルチック艦隊の戦死者は4545人、捕虜は6106人、日本の戦死者は116人でした。

日本海海戦は、海戦史上類を見ない完全なる勝利として世界が驚愕し、長年ロシアに抑圧を受けていたフィンランドやトルコでは日本の勝利に熱狂しました。

この海戦の大敗を受け、ロシアは戦意を喪失、アメリカの仲介を受け入れ、ポーツマス講和条約を締結し、日露戦争は終結しました。



 
東郷平八郎 連合艦隊司令長官像
  



終戦後、日本に凱旋した連合艦隊は、明治38年12月20日に戦時態勢から平時態勢に移行し、
翌、明治38年12月21日、東郷平八郎 連合艦隊指令長官は、新たな連合艦隊旗艦となった朝日艦上において、連合艦隊解散の辞を訓示しました。




連合艦隊解散の辞

原文

二十閲月の征戦已に往時と過ぎ、我が連合艦隊は今や其の隊務を結了して茲に解散する事となれり。

然れども我等海軍軍人の責務は決して之が為めに軽減せるものにあらず。

此の戦役の収果を永遠に全くし、 尚益々国運の隆昌を扶持せんには、時の平戦を問はず、先づ外衝に立つべき海軍が常に其の武力を海洋に保全し、一朝緩急に応ずるの覚悟あるを要す。

而して武力なるものは艦船兵器等のみにあらずして、之を活用する無形の実力にあり。

百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば、我等軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず。

近く我が海軍の勝利を得たる所以も、至尊の霊徳に頼る所多しと雖も、抑亦平素の練磨其の因を成し、 果を戦役に結びたるものして、若し既往を以て将来を推すときは、征戦息むと雖も安じて休憩す可らざるものあるを覚ゆ。


惟ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして、時の平戦に由り其の責務に軽重あるの理無し。

事有れば武力を発揮し、 事無ければ之を修養し、終始一貫其の本分を尽さんのみ。

過去の一年有半、彼の風濤と戦ひ、寒暑に抗し、屡頑敵と対して生死の間に出入せしこと固より容易の業ならざりしも、観ずれば是れ亦長期の一大演習にして、 之に参加し幾多啓発するを得たる武人の幸福比するに物無し、豈之を征戦の労苦とするに足らんや。

苟も武人にして治平に偸安せんか、兵備の外観巍然たるも宛も沙上の楼閣の如く暴風一過忽ち崩倒するに至らん、洵に戒むべきなり。


昔者神功皇后三韓を征服し給ひし以来、韓国は四百余年間我が統理の下にありしも、一たび海軍の廃頽するや忽ち之を失ひ、 又近世に入り徳川幕府治平に狃れて兵備を懈れば、挙国米艦数隻の応対に苦み、露艦亦千島樺太を覦覬するも之と抗争すること能はざるに至れり。

翻て之を西史に見るに、十九世紀の初めに当り、ナイル及トラファルガー等に勝ちたる英国海軍は、祖国を泰山の安きに置きたるのみならず、 爾来後進相襲で能く其の武力を保有し、世運の進歩に後れざりしかば、今に至る迄永く其の国利を擁護し、国権を伸張するを得たり。


蓋し此の如き古今東西の殷鑑は為政の然らしむるものありしと雖も、主として武人が治に居て乱を忘れざると否とに基ける自然の結果たらざるは無し。


我等戦後の軍人は深く此等の實例に鑒み、既有の練磨に加ふるに戦役の実験を以てし、更に将来の進歩を図りて時勢の発展に後れざるを期せざる可らず。

若し夫れ常に、聖諭を奉體して孜々奮励し、実力の満を持して放つべき時節を待たば、庶幾くば以て永遠に護国の大任を全うすることを得ん。


神明は唯平素の鍛練に力め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を褫ふ。


古人曰く勝て兜の緒を締めよと。


明治38年12月21日 連合艦隊司令長官 東郷平八郎



現代語訳

二十数ヶ月にわたった戦いも、はや過去のこととなり、わが連合艦隊は、今やその任務を果して、ここに解散することとなった。

しかし艦隊は解散しても、そのためにわが海軍軍人の務めや責任が、軽減するということは、決してない。この戦役で収めた成果を、永遠に生かし、さらに一層国運をさかんにするには、平時戦時の別なく、まずもって外の守りに対し、重要な役目を持つ海軍が、常に万全の海上戦力を保持し、ひとたび事あるときは、ただちに、その危急に対応できる構えが必要である。


ところで、その戦力であるが、戦力なるものはただ艦船兵器等有形の物や数によってだけ、定まるのではなく、これを活用する能力すなわち無形の実力にも実在する。百発百中の砲は、一門よく百発一中、いうなれば百発打っても一発しか当らないような砲なら百門と対抗することができるのであって、この理に気づくなら、われわれ軍人は無形の実力の充実、即ち訓練に主点を置かなければならない。

先般わが海軍が勝利を得たのは、もちろん天皇陛下の霊徳によるとはいえ、一面また将兵の平素の練磨によるものであって、それがあのような事例をもって、将来を推測するならば、たとえ戦いは終ったとはいえ、安閑としてはおれないような気がする。


考えるに武人の一生は戦いの連続であって、その責務は平時であれ、戦時であれ、その時々によって軽くなったり、重くなったりするものではない。

事が起これば、戦力を発揮するし、事がないときは、戦力の涵養につとめ、ひたすらその本分を尽くすことにある。過去一年半かの風波と戦い、寒暑を冒し、しばしば強敵とまみえて生死の間に出入りしたことは、もちろんたいへんなことではあったが、考えてみると、これもまた、長期の一大演習であって、これに参加し、多くの知識を啓発することができたのは、武人として、この上もない幸せであったというべく、なんで戦争で苦労したなどど、いえたものであろう。

もし武人が太平に安心して、目前の安楽を追うならば、兵備の外見がいかにりっぱであっても、それはあたかも、砂上の楼閣のようなものでしかなく、ひとたび暴風にあえば、たちまち崩壊してしまうであろう。まことに心すべきことである。


むかし神功皇后が三韓を征服されて後、韓国は四百余年間、わが支配の下にあったけれども、一たび海軍がすたれると、たちまちこれを失い、また近世に至っては、徳川幕府が太平になれ、兵備をおこたると、数隻の米艦の扱いにも国中が苦しみ、またロシアの軍艦が千島樺太をねらっても、これに立ち向うことができなかった。

目を転じて西洋史を見ると、十九世紀の初期ナイル及びトラファルガー等に勝った英国海軍は、祖国をゆるぎない案泰なものとしたばかりでなく、それ以後、後進が相次いで、よくその武力を維持し、世運の進歩におくれなかったから、今日に至るまで永く国益を守り、国威を伸張することができた。


考えるに、このような古今東西のいましめは、政治のあり方にもよるけれども、そもそもは武人が平安な時にあっても、戦いを忘れないで、備えを固くしているか、どうかにかかり、それが自然にこのような結果を生んだのである。

われ等戦後の軍人は、深くこれ等の実例を省察し、これまでの練磨の上に、戦役の体験を加え、さらに将来の進歩を図って、時勢の発展におくれないように努めなければならない。

そして常に聖諭を泰戴して、ひたすら奮励し、万全の実力を充実して、時節の到来を待つならば、おそらく、永遠に護国の大任全うすることができるであろう。

神は平素ひたすら鍛錬につとめ、戦う前に既に戦勝を約束された者に、勝利の栄冠を授けると共に、一勝に満足し、太平に安閑としている者からは、ただちにその栄冠を取上げてしまうであろう。

昔のことわざにも「勝って兜の緒を締めよ」とある。







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