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日本歴史紀行

歴史紀行 79 - 3 安徳天皇御陵(阿彌陀寺陵)安徳帝御入水之処碑


安徳天皇御陵
山口県下関市阿弥陀寺町 赤間神宮





1177年、治承2年11月、平清盛が太政大臣を辞し、生死をさまよう大病を経験してから10年目となる節目のこの年、運命の帝〜安徳天皇(言仁❨ことひと❩親王)が誕生します。


出家以降の清盛は、延暦寺〜嘉応の強訴。安元の大火。延暦寺〜安元の強訴。清盛の孫、資盛と摂政、九条基房の舎人同士の争いから大事件へと発展した殿下乗合事件。そして平家打倒を企てる密談〜鹿ヶ谷の陰謀。と、並の支配者では到底太刀打ち出来ない事態を次々と切り抜けて見せ、清盛が当代きっての傑物であることを証明して見せました。


天皇家の外祖父という この上ない喜びと地位を手に入れた清盛は、これまで以上に強引な政策を取る様になります。


長年、表面的には良好な関係を続けていた清盛と後白河法皇でしたが、安徳天皇誕生の翌年、関白〜藤原基実に嫁ぎ、関白の没後、遺領を相続していた清盛の娘、盛子から相続領を取り上げ、さらに清盛と後白河法皇の間を何かと取り持ち、二人の間にに立って苦心していた清盛の嫡子〜平重盛が亡くなると、後白河法皇は重盛の知行国であった越前を没収してみせるという荒業を起こします。

福原(現在の神戸市)にて後白河法皇の動きを静観していた清盛。


安徳天皇誕生から一年の時を迎える1179年、治承3年、清盛は数千騎の騎馬を率いて雪崩れ込む様に上洛し、御所の貴族らはもちろん、後白河法皇をも恐怖に陥れました。


清盛は後白河法皇の権限で近しい者たちに任じていた宮中の役職を解官、新たに知行国を平家一門とその近しい者らに32ヶ国を割り当て、後白河法皇を離宮に幽閉するといった所業に出ました。

この処置により、伊豆国司には清盛の義弟、平時忠が任じられ、代理となる伊豆目代に平家縁者の山木(平)兼隆が伊豆に入ります。

源頼朝の挙兵〜9ヶ月前の出来事でした。



4に続きます。




 





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