藤原鎌足 墓所
奈良県桜井市多武峰 御破裂山 山頂
後に朝廷の最高権力者となる藤原氏の祖、藤原鎌足は、614年 推古天皇22年に飛鳥の大原(現在の明日香村小原)の地で、鎌足の一族は祭官(祭司、当時の国の役人)として仕える中臣氏の家に生まれました。
若い頃から儒学を学び、秀才の名をほしいままにするも、当時の朝廷は蘇我氏が権勢を独占し、643年 皇極天皇2年、唯一、蘇たた我氏に対抗しうる皇位継承の資格もあった上宮王家(聖徳太子の一族)の山背大兄王は、蘇我馬子の孫、蘇我入鹿に攻め滅ぼされ、その勢いは天皇すら凌ぐ強大なものとなりました。
しかし、あまりの朝廷内での専横を見るに連れて打倒 蘇我氏を胸に秘めた鎌足は、蹴鞠の会に参加した中大兄皇子(後の天智天皇)が鞠を蹴った際に履物を飛ばした皇子の履物を拾いに近づくと、皇子に密かに計画を打ち明けました。
談山神社
645年(皇極天皇4年6月12日。)
意を決した皇子と鎌足は、皇極天皇の御所、飛鳥板蓋宮の大極殿において蘇我入鹿を襲って殺害、政変を知った入鹿の父 、蘇我蝦夷は自ら自宅に火を放って自殺し、稲目~馬子~蝦夷~入鹿と権勢を独占し、専横を極めた蘇我氏は滅亡しました。
蘇我氏の滅亡から一日を置いた6月14日、女帝 皇極天皇は弟の軽皇子に譲位し、軽皇子は孝徳天皇となり、政変を主導した中大兄皇子は孝徳天皇の皇太子となります。
この年、朝廷は新たな年として、大化の元号を制定し、現代に続く元号の称号を初めて定めました。
鎌足は中大兄皇子の側近として仕え、皇子が天智天皇となっても腹心の友の如く支えました。
669年 11月14日(天智天皇8年10月16日) 、鎌足は狩りの最中に落馬し、死の床につきます。
669年 11月14日、(天智天皇8年10月16日 )天皇の最高臣下として世を去りました。