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今井信郎 像、今井信郎 碑
静岡県島田市阪本
2018年11月、牧之原台地を巡りました。
11月22日という日は、坂本龍馬殺害の1週間後という日にあたります。
旧幕臣、元京都見廻組の今井信郎は、激動の幕末維新の世を生き抜き、牧之原で第二の人生を歩みました。
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今井信郎が住居と定めた場所は、牧之原台地の険しい窪地で、左右、背後にあたる搦手は要害の様に攻めにくい場所です。
この地に入植した今井は実際に何度か命を狙う者に襲撃もされましたが、地の利を生かして難を逃れました。
維新の後、今井は戊辰戦争の最後となる箱館まで戦い抜いて新政府軍に降伏し、勾留の後、特赦により2年あまりで保釈されました。
今井の特赦、保釈には西郷隆盛が関わったとされ、西郷に恩義を感じた今井は薩摩藩士族が西郷を担いで西南戦争が勃発すると、参陣するつもりで鹿児島に向かうも内乱は終結し、実現はしませんでした。
また、今井と何かの因果かも知れませんが、今井が過ごしたこの区域は阪本という字名です。
また、今井と何かの因果かも知れませんが、今井が過ごしたこの区域は阪本という字名です。
今井は開拓の傍ら、牧之原東照宮の創建。キリスト教への入信。さらには、初倉村村長に就任と町の発展に貢献しました。
大正時代に脳梗塞で倒れ、生涯を閉じる前にあたり、坂本龍馬殺害について、家族とごく一部の人に真実を語っていたそうです。
今井信郎、坂本龍馬殺害を記述。
明治35年5月、
今井の友人であった新選組の結城無二三の息子で、「甲斐新聞」主筆の結城礼一郎が、父の書き残した文と、聞いた話をもととして甲斐新聞に今井信郎が坂本龍馬と中岡慎太郎殺害に関与したことを語っていたと掲載したもので、新聞記事のために、誇張された感は否めないが、そのまま掲載されてしまったのである。
今井はこれに対して何らの弁明もしなかったが、明治42年12月17日に「大阪新報」記者の和田天華子に対して次のように書いて送っている。
1、暗殺 にあらず、幕命によって職務上捕縛に向かったところ、格闘したの殺でした。
2、新選組とは関係がない。
3、彼は伏見にて同心二名を銃殺したので、その逮捕のため向かったものである。
4、場所は京都蛸薬師角近江屋という醤油屋の二階である。
今井信郎の妻、いわ の口伝より
また、今井信郎の妻いわの口伝によると、事件の起こった11月15日朝、桑名藩の渡辺某とする侍が今出川千本の今井の仮寓を訪れ、二人でしばらく奥で話しあっていたが、今井はちょっと出てくるといって家を出ていった。
その日は京の寒さがひとしお身にしみる日で、水雨しぐれが降っており、今井は竹ノ子笠にみのという雨装束で朱鞘の大刀を引きずる様ににぶちこんでいった。このとき妻のいわはてっきり斬り込みだと直感したという。
「それから三日目の慶応3年 11月18日になり、今井は無事にぶらりと帰ってきた。しかし、右手を懐に入れている。
家に入ると そのまま奥に入って一人でごそごそやっているので不審に思って後からのぞくと、
右の人差指はパックリと開いていて、その傷の手当をやっていた。「どうなさった」と聞くと【うるさい!】と一喝しただけだったが、その後一カ月もたったのちに、「お前はこれから江戸へ帰れ。」というとともに【この刀を榊原先生 (今井の剣道師範)にお目にかけてくれ、これで板本龍馬と中岡慎太郎を斬った。
守護職からの褒賞もここにある】と突然うちあけたという。
いわが、京を後にして間も無く、薩長と幕府が鳥羽伏見で激突し、街は戦火に焼かれる。
第二に、明治三年の裁判にかけられた刑部省ならびに兵部日書の写(全文ではない)名一通。
私的なものは明治24年、今井真偽説の沸騰のさなかに、今井自身が答えた四項目の自白である。
このうち、口書の方では、竜馬、慎太郎両名討ち取りの現場にはいたが、見張りと捕縛が目的で、直接手を下していないとのべているのに、回答書では、太刀を取ろうとしたので、自分が下した。と、殺害したとしか考えられない言い方をしている。
第三に、結城無二三とその長男礼一郎に語ったものは、礼一郎の新聞記者としての誇張があるにせよ、ともかく今井自身が斬ったという前提で話していたものと考えられる。
「第四に,今井信郎の長男の家族は、大正期における人として知られていたが、
両親に初めてあったとき、当時話題の近江屋事件のことを尋ねた際には、今井は聞き取り難い武士訛りであったというが、「そこでさっ討ちとった」という。
こ間違いなく手にかけたようないい方をしていたようである。
今井信郎がきわめて控え目にいっていることが真実なのではないかと思っている。
参考著書【坂本龍馬を斬った男、幕臣 今井信郎】
著者 今井健彦 氏(今井信郎 三男)