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日本歴史紀行

歴史 今日の出来事 1582年 天正10年3月11日 甲斐武田氏滅亡



設楽ケ原決戦場 跡


3月11日
武田勝頼自刃~甲斐 武田氏 滅亡~


1582年 天正10年 3月11日

数多くの重臣を失った長篠 設楽ヶ原の戦いの大敗から7年、崩壊の道を進んでいた甲斐 武田氏。


武田滅亡のきっかけは、天正10年 1月末、信濃の親族衆 木曽義昌が永年の重税と兵の徴発に耐えかねた末に織田信長に通じたことでした。


激怒した武田勝頼は、総勢二万の大軍を率いて木曽義昌討伐に向かいますが、木曽義昌は信長に援軍を依頼します。


武田の真冬の信濃への行軍はままならず、手をこまねいているうちに信長は全軍に武田討伐令を発令し、嫡子、信忠を総大将に三万の兵を付けて木曽口から攻める様に派遣し、金森長近は飛騨、徳川家康には駿河から甲府を攻める様に命じました。


武田勝頼は木曽討伐を中止し、甲府に戻ります。

武田勝頼に従い、織田軍と奮戦したのは勝頼の異母弟 仁科信盛だけでした。

信濃の要衝 高遠城を必死で守るも、大軍を相手に孤軍奮闘の末 信盛は自刃しました。

高遠城落城後は、織田の軍勢は大きな抵抗を受けることなく甲府を目指して進軍し、勝頼は築城途中の新府城を捨てて、立て籠り再起を謀るべきと進言した譜代家臣の小山田信茂を頼りますが、裏切られて城には入れず、勝頼は僅かに残った家臣と妻子らを連れて逃亡しますが、勝沼の東、天目山に追い詰められ、ついに自刃して果てました。

戦国最強とも言われて信長、家康も怖れた名将 武田信玄の死後、10年と持たず甲斐 武田氏は滅亡しました。




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