
西郷隆盛像

勝海舟像
西郷隆盛、勝海舟
第二回交渉 1868年 慶応4年 3月14日
3月14日の第二回交渉では、勝から前日の降伏条件に対する回答が提示されます。
徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する。
徳川慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命に関わる処分者は出さない。
武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に新政府に引き渡す。
城内居住の者は、城外に移って謹慎する。
江戸城を明け渡しの手続きを終えた後は即刻田安家へ返却を願う。
暴発の士民鎮定の件は可能な限り努力する。
これらの回答は、以前に山岡鉄舟に提示された条件に対する全くの骨抜きであり、事実上、新政府からの要求を拒否した格好に等しいものでしたが、西郷は旧知の勝 海舟、勝を引き立ててきた大久保一翁を信頼して、翌日に迫った江戸城総攻撃を中止し、自らの責任で回答を京都へ持ち帰って検討することを約束しました。
ただ、勝も策士でもあり、イギリスの公使 パークスと密かに示し合わせて新政府に圧力をかけることも怠らず、また、最悪、交渉が決裂した際のために、町火消しの新門辰五郎に江戸市中への放火を依頼していました。
新政府軍が雪崩れ込んだ場合に、江戸の住民達を大量の船で千葉へ避難させ、市中を焼き払い、兵糧と武器を枯渇させてゲリラ戦で新政府軍を消耗させるというナポレオンがロシアで味わった大敗戦を参考に描いていたとされてます。
ここに、江戸無血開城が成立しました。
維新後 勝は、禄を失った旧幕臣達のために奔走し、徳川慶喜の身辺警護をしていた旧幕府の精鋭隊の中条景昭を筆頭に静岡、牧之原台地に派遣し、茶畑の開墾に従事させ、今日の静岡県の茶の名産の礎へと発展させました。
将軍後見人の頃から数々の策謀に明け暮れた徳川慶喜とは、そりが合わず、度々意見の衝突を繰り返したものの、慶喜の赦免と名誉回復にも奔走し、勝の働きかけもあり、慶喜の謹慎は明治2年に解除、晩年には叙勲、華族へと叙爵となります。
1899年 明治32年、脳溢血で倒れ、
【これでおしまい】
と言い残し、75年の激動の人生を終えました。
一方、維新の功労者 西郷は、明治新政府の要職を担って奔走しますが、やがて薩摩、長州、土佐、肥前の主導権争いに加え、盟友 大久保利通との確執が決定的となり辞職して故郷、鹿児島に帰郷。
やがて不平薩摩士族の盟主に担がれる形で西南戦争に参加、明治10年 故郷 鹿児島の城山で戦闘中に銃弾を受け、別府晋介に介錯を頼んで最期を遂げました。