江川英龍と韮山反射炉
韮山反射炉の生みの親 江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)は、1801年 享和元年 幕臣 伊豆国 韮山代官、江川太郎左衛門英毅の二男として生まれました。
英龍の生まれた江川家は代々 韮山代官を務める家柄で、英龍は13歳で韮山代官江戸役所の見習いとなり、父、英毅の飢饉で疲弊する農民達のために奔走する背中を見て育ちました。
兄の病没があり、江川家を継ぐ立場になった英龍は、父がそうであった様に代官を務める傍らで倹約を徹底し、村々を巡回して困窮で窮まった農民には、長低金利で貸し付けを行って金融面でも救済に奔走しました。
英龍は、好奇心も旺盛な人物だった様で、戦時の携帯食としてヨーロッパ陸軍の兵糧パンを採用しなければと考え、手代の柏木忠俊に命じ、長崎のパン職人・作太郎からパンの製造法を学ばせました。
英龍たちが初めてパンを焼いたとされるのが、天保13年4月12日で、現在では【パンの日】に制定されています。
そんな英龍の管轄地の民衆は、いつしか~世直し江川大明神~と称えるようになりました。
韮山代官として農民から慕われる行政能力を発揮した英龍は、海防にも高い関心を持っていました。
韮山代官江戸役所当時から英龍が目にしていたのは、異国船が近付くことに右往左往する幕府の姿で、英龍は江戸を防衛するために、まず、諸外国の実情を知るべきと考えて、高野長英ら蘭学者と交流し、西洋の技術を導入して品川に防衛の台場を築造し、台場に設置する砲台を造る製鉄所である反射炉を建設するという結論に至りました。
英龍はペリー来航の10年以上も前の1842年 天保 13年頃には独自に反射炉の研究を進め、幕府に建白も出していましたが、まともに相手にされず仕舞いで、幕府が英龍に反射炉建設の許可を与えたのは、ペリー来航から半年後の1853年 嘉永6年 12月のことでした。
英龍は必要な資材と職人を集め、反射炉建設を進めますが、1855年 安政2年に志し半ばで世を去り、反射炉建設は息子の英敏が代官職と共に後を継ぎ、2年後の安政4年に反射炉は竣工しました。