今井信郞 碑
静岡県島田市阪本 種月院 墓所
幕末の風雲児、坂本龍馬を暗殺したと言われる今井信郎は、1841年 天保12年、10月2日 江戸に生まれました。
18歳で剣術家、榊原鍵吉の門に入り、20歳にして免許皆伝。講武所師範代を拝命し、1863年 文久3年には、開港した横浜に赴き、密貿易の取締役に就任しました。
今井信郎は、いよいよ徳川幕府が追い詰められた1867年 慶応3年、現在の警察組織にあたる京都見廻組に編入され、京都の治安維持の役目を仰せられ、京都の市街の各所で不逞浪士の摘発にあたっていました。
将軍 徳川慶喜が政権を朝廷に返還した大政奉還からひと月、1867年 慶応3年 11月15日、見廻組 佐々木只三郎、今井信郎を含めた七名が醤油商 近江屋に十津川郷士を偽って入り、坂本龍馬の従僕の藤吉に名刺を渡して取り次ぎを依頼しました。
藤吉が二階の坂本龍馬に取り次ごうとして階段を登ろうとして背中を向けた時、背中に太刀を浴びた藤吉が倒れ、二階の龍馬がほたえな!【土佐弁で騒ぐなの意味】と声をかけたため、佐々木らは龍馬の存在を確信して二階に乱入し、龍馬と中岡慎太郎を襲撃、龍馬は前頭部を横に一太刀斬られ、奥にあった自身の太刀を取りに背を向けたところを右背後からさらに斬られ、龍馬は鞘を抜く間もなく太刀を受け止めたものの、刺客に前頭部を斬られ倒れました。
龍馬は、俺は脳をやられた…もうだめだ。と言い残し絶命、間もなく中岡慎太郎は両手両足を斬られ、虫の息になりながらも助けを求め、事件が発覚しました。
龍馬の死後、政権転覆を謀る大久保利通、岩倉具視らにより王政復古の大号令、西郷隆盛の主導による江戸市中の施政妨害により、ついに幕府は新政府と戦いますが、鳥羽伏見の戦いで敗れ、態勢が決します。
この戦いで佐々木只三郎は戦死、今井信郎はその後、戊辰戦争を戦い抜き、最後の箱館戦争まで転戦し、総裁 榎本武揚の降伏により、旧幕府軍は敗北、今井も投降しました。
今井は、禁固刑に処され服役中に坂本龍馬暗殺の顛末を自供します。
今井信郎邸宅跡地の東屋に今井信郎の壁新聞も。
やがて西郷隆盛の口添えで減刑と恩赦も加わって釈放され、身柄を旧幕臣の多くが移った静岡藩の預かりとなり、牧之原台地での茶畑の開拓に汗を流す日々を過ごします。
ただ、明治10年、西郷隆盛が西南戦争を起こした際には、政府軍として加わりながらも、西郷軍と合流して共に戦うつもりだったという血気の盛んな一面も持ちあわせてましたか、合流前に西郷隆盛は城山で自刃し戦いが終わった後でした。
牧之原に帰農した今井は、茶畑の開拓に勤しみながら、地域の発展にも尽くし、産業、教育と労力を惜しまない姿に地域の人々に推され、初倉村の村長にも選出されました。
時代も明治から大正へと移り、晩年を初倉村の里深くで過ごした今井は、背後の三方を急峻な崖に覆われ、まるで坂本龍馬暗殺の報復に怖れるかの様な用心深さを伺われる場所に屋敷を構え、ひっそりと暮らしました。
今井信郎邸宅跡地に建立された像
信郎 三男、健彦の妻は大正時代の歌人 今井邦子
今井信郞の墓は、東京都文京区の寂円寺にありますが、今井が旧幕臣らと精魂込めて開拓した茶畑の南にある種月院には、明治以降 牧之原台地を日本一の茶産地に生まれさせた中条金之助景昭ら、仲間が眠る墓所に石碑が建立されています。