静岡茶発祥の地 足久保
静岡市葵区足久保
永らく全国一の生産量を誇る静岡茶。
有名な生産地は、5000ヘクタールにも及ぶ牧之原台地です。
ここは明治時代に旧、徳川幕臣達により開拓の手が入り、一大産地へと成長していきました。
牧之原については、次の静岡茶の寄稿で掲載致します。
静岡茶がその息吹をはじめたのは鎌倉時代にさかのぼります。
日本に茶というものが最初に遣唐使により、
もたらされたのは奈良時代ですが、その時は朝廷内のごく一部で楽しまれる程度で世間一般的には広まらず、やがて平安時代後期に臨済宗の宗祖となる栄西が宋国から帰国した際に経典と共に茶の種子を持ち帰り、茶が嗜好品として徐々に広まりました。
1202年11月1日、(建仁2年)鎌倉時代初期に栄西の孫弟子となる円爾(えんに)〜国師諡号、聖一国師が駿河国安倍郡栃沢、現在の静岡市足久保に近い栃沢で生まれます。
父は平氏に連なる出自で、円爾は幼名、龍千丸。幼い頃から聡明で栃小僧と呼ばれました。
龍千丸5歳の時、駿河の久能寺に預けられ、仏門に入ります。
足久保の茶畑
聖一国師(円爾)は、駿河国の久能寺で仏門に入り、尭弁(ぎょうべん)を師に修行を始めました。
尭弁は聡明な円爾をよく導き、やがて上方へ上
り、園城寺(三井寺)、東大寺、上野国(群馬県)長楽寺の栄朝や、幕府執権の北条氏の崇敬する寿福寺などで学びました。
国内の名刹での修行に限界をみた聖一国師は、
33の時に宋に渡り、修行を積みます。
径山万寿寺は、当時の五山の一に数えられる名山でした。
師となって聖一国師に教えを施していた無準禅師は、異国の僧とはいえ、聖一国師の傑出した能力をみたことで、正式に法を受け継がせることとし、経典や数々の貴重な品々を託して送り出します。
そして聖一国師は1241年、仁治2年に帰国しました。
その後、筑前、京、鎌倉などで仏教の普及につとめます。
その際、聖一国師が持ち帰ったのは、経典や仏具はもちろん、儒書、医薬書を始め、当時の先進的な科学技術。
また、水車を利用しての製粉(うどん、そば)の手法、蒸すことによって作り出す饅頭の製法、今日の博多織物に繋がる製法、陶器製品(主に陶器人形)の焼き方、そして茶に関するものが含まれており、うどん、蕎麦や饅頭の伝来、博多織や博多人形のルーツ、やがて栄西と共に各地の茶の始祖と崇められるようになりました。
また、帰国後に滞在した博多では、疫病が流行った際に町民が担ぐ施餓鬼棚に乗り、水を撒きながら疫病退散を祈祷したことが、現在まで続く博多祇園山笠の起こりといわれています。
静岡茶発祥地の碑(静岡市葵区足久保)
静岡とお茶とのかかわりについては、『東福寺誌』に記された「国師の駿河穴窪の茶植え〜」との記述が残ります。
1244年、寛元2年、かつての修行の地、上野国の長楽寺への帰路、生まれ故郷の駿河国へ立ち寄ると、母への土産を兼ねて足久保(穴窪と伝わる。)で持ち寄った茶の種子を植えました。
足久保は比較的温暖な駿河国において、朝夕の寒暖差があり、朝には霧が起こりやすく、霧が天然の遮光となる土地だったことが、思わぬ茶産地として成功をもたらしました。
やがて江戸時代になると、大御所として駿府城に隠居の身として落ち着いた徳川家康公に献上された足久保の茶が家康公の目に止まります。
武備を怠らず、質素倹約を常としていた家康公ですが、茶にはうるさかった様で、足久保の新茶を保管する茶蔵を足久保からの道沿いに建てさせて、必要な量だけ駿府城まで運ばせていました。
今年の新茶
足久保川
東福寺誌に伝わる
「駿河穴窪」とは静岡市足久保のことであり、聖一国師の生誕地・栃沢とは、山を挟んで隣りの村です。
後に足久保は御用茶を納めるほど良質な茶を作り、今日も上品な高級煎茶を生産しています。