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日本歴史紀行

思い出フォト 95 2016年 3月 島田市、牧之原市サイクリング


牧之原大茶園から島田市街の眺め



蓬莱橋

旧幕臣達の希望の架け橋〜蓬莱橋

1869年 明治2年 7月、江戸幕府 最後の将軍 徳川慶喜が謹慎のために水戸へ発ち、やがて明治新政府により謹慎か赦免されて静岡への道中を護衛してきた幕府 精鋭組【後の新番組】を中心とした幕臣らは、徳川宗家を慶喜から継いだ徳川家達が静岡藩主となり、新番組は ここで御役御免となりました。

旧幕臣達の身の振り方を考えていた勝 海舟は、広大な幕府領でありながら、耕作に不向きなため、何百年と放置されてきた金谷原【現在の牧之原台地】の存在を知ります。

勝は、新番組の一員の中條景昭らに金谷原での開墾と茶葉の栽培を持ちかけました。

中條景昭は、【死を誓って開拓します】と快諾し、景昭は統率力を発揮して開拓団を率いて不毛の台地、金谷原の開拓と茶葉の栽培に心血を注ぎます。

翌、明治3年4月、徳川家達は藩領の志太(現在の藤枝市)、榛原(現在の牧之原市)、小笠(現在の菊川市)へ視察に出掛け、その道中で大井川の堤防工事の視察に足を延ばし、金谷原の谷口原で開拓する中條景昭の住まいを訪ねました。

中條景昭は驚き、藩主 家達のお供として案内します。

家達は、視察の後の休憩で、お供をした景昭に…
【 農は里の宝、向こうの山は宝の山、皆で力を合わせ、宝の山を切り開けよ。】と谷口原を指し、景昭を激励しました。

景昭は厳しい環境の中、仲間達と力を合わせ、茶葉の栽培と台地の開墾を続けました。

明治も10年が過ぎる頃、開墾が少しずつ進み、農民達も何とか生活用品を買える程度になりはじめ、農民の一部から、渡河の度に危険な大井川を越えなければならないため、橋を掛けてもらえないかと、県令【現在の静岡県知事の身分】に願いを出し、翌、明治11年12月に許可がおりました。

橋は急ピッチで作られ、1ヶ月余りで完成を見ました。

完成後、橋の名を命名するということになり、様々な意見が出る中、【藩候が谷口原を宝の山とおっしゃったことがある。それに因み、蓬莱橋にしたらどうか。】と言った者が出ました。

皆がそれがいいだろうと話がまとまり、明治12年1月13日、蓬莱橋が誕生しました。

話を切り出したのが、中條景昭だったかは定かではありませんが、景昭はさかのぼる明治7年に開拓の統率力を見込まれ、明治政府から神奈川県令【現在の県知事】を打診されましたが、わしの身は茶畑の肥やしにする。と言って誘いを一笑に伏しました。






大井神社
安産と奇祭の大井神社


石の太鼓橋 江戸時代のもの


帯塚
お産の時に身に着けていた帯を埋めたという帯塚。


寛文3年(1663年)奉納の石燈籠


日清日露戦役記念碑

大奴(おおやっこ)像




種月院 本堂




牧之原開墾先駆者記念碑



中條金之助景昭
中條金之助景昭は、徳川家の旗本の家の出で、剣術、柔術に長けた人物でした。

時代が激動の幕末を経て、明治維新を迎えると、最後の徳川将軍の座を返上した徳川慶喜を護衛する組織、精鋭隊の隊長として江戸を離れ駿府(現在の静岡県静岡市)まで随行してやって来ました。


精鋭隊は新番組と名を変え、慶喜の護衛を続けた後、時代も平穏となり、慶喜の身の危険も無くなると、新番組の身の振り方を巡り、勝 海舟、山岡鉄舟らと語り合い、彼等の勧めもあり、牧之原での茶畑の開拓をすべく、新番組の隊士と家族一同を引き連れて入植しました。


金之助景昭は、開墾方頭取の役を拝命して、先頭に立って牧之原台地での茶畑の開墾に精を出します。

明治4年に廃藩置県となると、明治新政府は、神奈川県令(現在の県知事の職)として金之助景昭に白羽の矢を当てますが、金之助景昭は、容易に進まない牧之原台地での開墾を投げ出すことは出来ないこともあり、牧之原の土の肥やしとなると、言って固辞しました。

金之助景昭は、明治29年に70歳の生涯を閉じ、葬儀委員長は勝 海舟が務めました。


やがて牧之原大茶園は、全国一の茶の産地となり、現在も牧之原台地は茶畑が一面に広がっています。



今井信郎


幕末の風雲児、坂本龍馬を暗殺したと言われる今井信郎は、1841年 天保12年、10月2日 江戸に生まれました。

彼の写真を見ましたが、瞳からは、あの時代を戦い抜いて生き残った男の凄みが伝わってくる表情に感じました。

18歳で剣術家、榊原鍵吉の門に入り、20歳にして免許皆伝。講武所師範代を拝命し、1863年 文久3年には、開港した横浜に赴き、密貿易の取締役に就任しました。

そして1867年 慶応3年、江戸に戻り、新撰組と共に怖れられていた京都見廻役を拝命し、11月15日、京都近江屋に踏み込み、坂本龍馬と中岡慎太郎を同志、佐々木只三郎らとともに急襲し、殺害しました。

戊辰戦争勃発後は衝鉾隊を組織して奥州に転戦し、最後の箱館戦争まで戦い抜き、五稜郭で投降し、新政府軍に捕らわれ収監されました。

収監された今井は、幕末の近江屋での暗殺事件を自供したことで禁固刑となりますが、新政府に再出仕した西郷隆盛の口添えに恩赦も加わり、旧 徳川幕臣の多い静岡藩にお預けとなりました。

旧幕臣の多くが新たに牧之原台地で開拓者となって茶畑を耕すことを決め、次々と入植していった流れから、今井も開拓者となって茶畑の開拓に汗を流す人生を歩み始めました。

以来40年間、初倉地域の経済、産業、教育、文化に携わり、榛原高等学校の創設に尽力し、農協の前身の農事会長を務め、初倉村村長にもなった人です。

明治時代後期には、村の有力者となっていた今井ですが、屋敷のある土地は背後が急峻な地で、まるで要害の地の利を生かした場所で、何かから身を守るかの様な生活を伺います。






種月院 墓地にある今井の石碑。
墓は東京にあります。












大井航空隊之跡 牧之原市

1939年 昭和14年 旧帝国海軍は、軍備拡大計画を掲げ、その中で14部隊に過ぎない海軍航空隊を75に増やすことを決め、牧之原に航空隊を設置することが挙げられました。


1940年 昭和15年、太平洋戦争が開戦する前年の3月、海軍横須賀指令部が牧之原尋常小学校に飛行場予定地の隣接する地主、村長、住民らを集め、約300ヘクタールの用地買い上げの名のもとで立ち退きを求めました。


当時、計画地は明治初めに旧江戸幕府の武士などが入植し苦労して開墾した茶園が広がり、住民らは飛行場の建設に反対。

後日、農民約100人が県知事に中止を訴えたものの、軍の計画はそのまま実行され、建設予定地内の立ち退き数は約200戸にも及びました。

大井航空隊の3年
昭和17年、開港となった大井飛行場で当初は偵察機の乗務員の教育を行っていましたが、1945年 昭和20年、太平洋戦争の戦局の悪化に伴い航空隊の訓練は、特攻隊の訓練へと変化し、ここで訓練を受けた隊員、教官の多くが特攻兵として参加し、還らぬ人となりました。

終戦後、飛行場は武装解除され、時間をかけて茶畑に戻りました。

終戦から半世紀あまり過ぎ、同じ牧之原台地の約3キロ北に静岡県民の空の翼、富士山静岡空港が開港しました。











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