源頼朝、北条政子夫婦の像、
頼朝 配流の地〜蛭ヶ小島
静岡県伊豆の国市四日町
治承三年(1179年)11月、後白河法皇を幽閉
して院政を停止させた平清盛は天皇家を凌ぐ最高権力者として君臨し、頼朝の暮らす伊豆国に
は、〜平家に非(あら)ずんば人に非(あら)ず〜と豪語したことで知られる清盛の義弟の平時忠が伊豆国主となり、さらに自らの息のかかる伊勢平氏の家人である山木兼隆を派遣して支配を進めます。
平家家人による圧迫がより苛烈になり始めたことで、頼朝が身を寄せる北条氏といった伊豆の小豪族達にも危機感がもたらされます。
治承4年(1180年)6月19日、後白河法皇の皇子である以仁王によって全国の源氏に平家追討を命じる令旨が発せられ、当初は令旨を黙殺した頼朝達ですが、法皇の皇子たる以仁王が敗れ討たれ、従って挙兵した源氏同族の従三位 源頼政もあえなく平家に敗れると、頼朝に京の情勢を密かに知らせて来ている三善康信が令旨を受け取った全国の源氏を追討する決定が下されたと密書により知らせて来たことで、頼朝は長年秘めていた平家打倒を実行する決意します。
治承四年(1180年)8月17日、源頼朝はついに平家打倒を宣言して挙兵することとなります。
以仁王の令旨を受けた全国の源氏に対して、平家が討伐するという報せを京より受けた頼朝が
腰を上げた格好でした。
最初の標的は、平家の重鎮、平時忠が伊豆目代として遣わした伊勢平氏に連なる山木兼隆と後見人の堤信遠でした。
標的とされた山木兼隆は、北条氏とは浅からぬ因縁がありました。
北条時政が在京の折り、留守を預かる政子が頼朝と恋仲となっていたことを知った時政は、平家に露見した後の家の破滅を危惧し、山木へ強引に輿入れさせようとしたものの、政子は頼朝の元へ逃れるという結果となり、輿入れは失敗していました。
この様な経緯もあり、政子は頼朝と結ばれ、流人の身である頼朝を北条家が保護する形となります。
治承二年(1178年)政子は懐妊、長女 大姫を授かります。
大姫誕生の2年後の治承四年、
北条家は頼朝の挙兵に加勢し、頼朝の源氏再興と運命を共にします。
香山寺 山門
静岡県伊豆の国市韮山 山木
治承四年8月17日、この日は伊豆国の一の宮、三嶋大社の祭礼当日で、頼朝らは山木館の郎党の多くが出払う隙を突いて襲撃を決行します。
北条邸を出立した時政ら軍勢は、二手に分かれ、山木兼隆邸と後見人の堤信遠邸を目指しました。
山木兼隆館跡(現在は個人私有地)
山木兼隆供養塔
香山寺 本堂
まず、分かれた軍勢の佐々木盛綱、経高兄弟の軍勢が堤信遠邸を急襲、佐々木経高が堤信遠邸に開戦の狼煙となる弓矢を放ちます。
吾妻鏡いわく、
〜これ源家、平氏を征する最前の一の箭なり〜
と記される戦いが始まります。
豪傑と知らせた堤信遠も、多くの郎党が不在の中、邸宅を包囲されては勝ち目なく討死。
続けて北条時政らが山木兼隆邸を襲撃し、山木兼隆を討ち、源頼朝 再起を賭けた戦いは源氏方の勝利で終わりました。
山木兼隆を供養する香山寺は討たれた山木兼隆が開基したものの、山木の死により廃絶となるも足利尊氏の祖父、家時が臨済宗寺院として再興。
やがて室町幕府の衰退と共に廃絶の危機に伊豆を狙い挙兵して来た伊勢新九郎盛時(北条早雲)の禅寺として栄え、北条氏が小田原征伐で滅亡すると関東入府となった徳川家の重臣、内藤信成が韮山城主となると格別の庇護を受けました。