平安京 大極殿跡 内裏跡
大極殿跡
京都市上京区千本通丸太町上ル 児童公園
内裏承明門跡
京都市上京区田中町
781年 天応元年 4月30日、光仁天皇の譲位に伴い、天智天皇の系譜の山部王が第50代の桓武天皇として即位しました。
桓武天皇は、長年 大和国 (現在の奈良県)で肥大してきた仏教勢力などから離れるべく、794年 延暦13年10月22日、平城京から北の長岡へ遷都します。
長岡京への遷都後、桓武天皇の弟で皇太子の早良親王を首謀とする側近、藤原種継の暗殺事件が発生、桓武天皇は早良親王を幽閉、親王は無実を訴えて絶食死すると、桓武天皇の妃、母が相次いで病死、そして皇太子まで重病に陥り、追い討ちをかけるように災害が次々と起こり、陰陽師に占わせると、早良親王の怨霊か天皇と長岡京に災いをもたらしていると告げたこともあり、わずか10年で天皇は長岡京から都を移す決意を固めました。
桓武天皇は新都造営にあたり、和気清麻呂、藤原小黒麻呂ら側近の意見を受け、都を怨霊を防ぐ平安の地とするべく陰陽と風水の思想から、相応しい地形をと北の玄武、東の青龍、西の白虎、南の朱雀と四神の守護神に四方を守らせ、さらに中央の黄龍とする場所に宮殿を造ることで都も治世も安定すると確信します。
北の玄武は山や丘を意味し、その位置に船岡山。
東の青龍は清流、川を意味し、その位置にある鴨川。
西の白虎は道を意味し、西国への山陽、山陰の両道。
南の朱雀には、水や池を意味し、宇治川や桂川の水が流れ込む巨掠池。
これらの理由から新都の地は、長岡よりさらに北東の葛野(かどの)と呼ばれた現在の京都市が選ばれます。
北の玄武にあたる船岡山から真っ直ぐラインを伸ばし、中央に左右の大大裏を造営し、南の朱雀の位置に羅城門を設置し、東西の青龍、白虎に東西の大寺
を建立することで怨霊を封じようと考えたのです。
大極殿は平安京最大の建物で、中央に天皇の御座の高御座が置かれ、即位、政務が行われ、内裏は天皇の居住地であるとともに、立太子などが行われる紫宸殿などがありました。