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日本歴史紀行

歴史 今日の出来事 12月2日 沢村栄治 戦死 昭和19年12月2日




沢村栄治 像
静岡市清水区 草薙球場


日本球史に残る伝説の投手、沢村栄治。
毎年、プロ野球でその年で最も活躍した投手に贈られる賞に沢村賞があります。


文字通り〜沢村栄治の活躍に因んだ賞であります。


沢村栄治
野球ファン〜プロ野球を観る方なら、大半の方が存じる選手名でしょう。


沢村栄治は
昭和9年、1934年の日米野球では、当時17歳の沢村栄治が先発登板し、強力過ぎる全米打線を剛速球でねじ伏せ、ルー・ゲーリッグの本塁打による1失点のみの快投を見せ、後の世の語り草となりました。


1936年、昭和11年、現在のプロ野球の前身〜日本職業野球連盟が発足し、ペナントレースにあたる興行試合が始まります。


沢村栄治は東京巨人軍(現在の読売巨人軍)に入団、初年度から14勝、2年目には24勝と抜群の成績を残す球界の大投手として期待されましたが、二度に渡る徴兵と兵役で肩を痛めると成績は急落、昭和19年には巨人の契約を解除され、軍需工場での工員として生活を続ける中、三度目の徴兵となります。




1944(昭和19)年10月、予備役から再度の召集を受けた沢村は、京都の伏見連隊に入営しますが、出征に至る沢村に往年の大投手としての栄光も周囲から忘れ去られ、見送りには彼の父のみが連れ添ったそうです。


まもなくフィリピン防衛戦に向けて船隊の派遣が行われました。


12月2日未明、アメリカの潜水艦 シーデビルは、屋久島沖の西方150キロの東シナ海で、フィリピンに向かう日本軍の【ミ29船団】を発見。午前4時半、輸送船【はわい丸8】(9467トン)と【安芸川丸】(6895トン)を魚雷攻撃により撃沈しました。

沢村英治はこのどちらかに乗船していたと見られ、27年の短い生涯を閉じました。




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