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日本歴史紀行

歴史紀行 83 ‐ 4 静御前 像 4


静御前 像
茨城県古河市下辺見



1185年、文治元年11月
鎌倉方に引き渡された静御前は京、六波羅へ護送され、翌年に捕らえられた母、磯禅師と共に鎌倉へと身柄を送られました。


静御前は頼朝の近侍、安達清常の預かりとなり、連日厳しい取り調べを受けながらも、義経の所在は知らぬ存ぜぬを繰り返し通しました。


鶴岡八幡宮 舞殿




厳しい取り調べも ひと月余り経過した4月。


憔悴しきった静御前を見兼ねた北条政子が九郎義経を含めた源氏の戦神である八幡大菩薩に奉納する邦楽舞踊を披露してくれまいか、と懇願すると、遂に静も折れ、鶴岡八幡宮の舞台に立つことを決意します。


頼朝は静御前に祝いの舞を期待し、鼓打ちにはかつて平重盛の家人で、長く京に暮らして京文化に精通した工藤祐経が、日本伝統の打楽器である銅拍子(どびょうし)の打ち手には、武蔵最強の秩父党嫡流、文武両道の士で頼朝の鎌倉入りに先陣を任された畠山重忠が務めます。


八幡宮舞殿の回廊より姿を見せた静御前は、水干(男子装束)を纏った姿で、まずは君が代を謡い始めると…


〜吉野山 峰の白雪 踏み分け入りにし人の 跡ぞ恋しき〜


〜しづやしづ 賤のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな〜




下品な濁声で囃し立てていた鎌倉武者らを美しくも威厳に満ちた謡(うた)と舞で圧倒し、場はたちまち感動の静けさに包まれます。


ただ、静の舞に激怒したのが頼朝てした。

頼朝は奉納舞踊で謀反人を慕う謡と舞を披露するとは何事だと怒気を露わにしますが、政子が逆境の義経を今も恋慕う静御前こそあっぱれと頼朝をなだめ、褒美を与えました。



5に続きます。


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