乙女と盲導犬の像
東京都港区新橋駅前
子犬チャンピィ
1956年、昭和31年1月、塩屋さんの元に1通のハガキが届きました。
塩屋さんが資産家や、赴任外国人の犬の訓練をしていた当時、何かと世話になった新宿中村屋の2代目、相馬安雄さんからでした。
戦前、犬好きもあり、盲導犬普及に関わろうとしていた相馬さんですが、犬を軍用に利用しようと考える同士達と決裂した経緯からその道を断念していました。
相馬さんからは、知り合いの全盲の子息が盲導犬を必要としている、一度会ってほしいというものでした。
全盲の若者は、河相 洌(きよし)さんといい、大学四年生で、戦中戦後の食料不足の中での栄養失調が原因で失明してしまいました。
父は元外交官で戦後処理業務に携わっていた河相達夫さんでした。
河相達夫さんは、あるパーティーでアメリカ大使館付きの武官、ノーベル海軍大佐と知り合い、親しくなりました。
ノーベル海軍大佐は、河相達夫さんの息子が全盲であることを聞くと、飼っているジャーマンシェパードのチャンピオン犬の子犬、チャンピィを連れ、盲導犬に育ててみてはどうか?と譲りました。
海外事情に明るい河相達夫さんも、海外で生まれた洌さんも、盲導犬が海外で活躍していることをよく知っていたことから、洌さんは盲導犬と自立した生活をしたいと考えました。
河相洌さんはチャンピィを盲導犬に育ててくれる訓練士はいないか、探すも日本ではまだまだ盲導犬として訓練してくれる犬の訓練士は居らず、かつて盲導犬育成を志したことがある新宿中村屋の相馬安雄さんに行き着き、相談したところ、〜日本では、塩屋賢一さんという訓練士しか、盲導犬を育成出来ないでしょうとして、相馬さんから紹介されました。
恩人である相馬さんからの依頼もあり、塩屋さんは東京、大森の河相さん宅を訪ねました。
5に続きます。