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日本歴史紀行

思い出フォト 137 井伊直虎



浜松市のマスコットキャラクター
家康くん&直虎ちゃん

(左)出世大名 家康くん
(右)出世法師 直虎ちゃん

いまや、浜松市のお祭りやイベント等では無くてはならない人気キャラクターとなりました。





井伊直虎

滅亡の危機にあった遠江の小さな御家をあらゆる知恵と駆け引きで今川、武田、徳川と、大国の間を生き抜き、愛してやまない亡き許嫁の忘れ形見を徳川家臣最大の12万石の太守として成長させた女城主〜井伊次郎法師こと、井伊直虎が1582年9月12日(天正10年8月26日)に亡くなりました。(生年月日は判明していないため、享年は不明)




龍潭寺

龍潭寺 山門









奥から二番目が井伊直虎の墓



大国〜駿河の今川家に曾祖父の代から散々駆り出され、実の父〜井伊直盛も桶狭間の戦いで失い、許嫁〜直親は今川家へ謀叛の疑いをかけられ、駿河へ弁明に行く道中に斬殺。

掛川城下



井伊直親 惨殺の地 十九首塚





許嫁の遺した遺児〜虎松(後の井伊直政)を守るため、女地頭として、井伊谷の領主となった直虎。

自ら井伊谷の当主となることで、虎松を守るべく三河、鳳来寺に預けます。


亡国への道をたどる今川。

新興の可能性を秘めた若い当主の徳川。

今川を駿河から駆逐し、徳川を三方ヶ原で叩き、遠江各地を嵐のように蹂躙してみせた武田。

遠江の大部分の国人領主が武田の支配下となり、父祖伝来の井伊谷城には武田家重臣の山県昌景が入りました。

【…後に家康は井伊直政に旧武田遺臣を預けますが、預けたのが山県の赤備えでした。これが井伊の赤備えとなります。】


しかし、
直虎が虎松を託すことに決めたのは、徳川家康でした。


武田に手痛い大敗北を喫した徳川でしたが、三方ヶ原の戦いでは武田信玄に野戦を挑み、翌年には武田信玄が病没すると起死回生を計り、奪われた領地の回復を始める姿に、直虎は家康に賭けたのかも知れません。


虎松を呼び寄せ、母を松下清景に再嫁(弟の常慶は徳川家臣、義兄弟の嘉兵衛之網は頭陀寺城主〜まだ若き木下藤吉郎〜後の豊臣秀吉を召し抱えた人物)。

1575年、天正3年、家康が鷹狩りに出かけた際に謁見を求め、虎松は家康に出仕することとなり、やがて家康の小姓となり、井伊家の再興を許され、井伊万千代を名乗ります。


徳川家中において、万千代の文武に関わらず凄まじい働きを家康は見逃さず、ついには家中最大の出世頭となります。

天正10年、本能寺の変から家康は伊賀越えにて生涯最大の危機を迎えましたが、万千代も必死に家康を警護し、無事に帰還します。


戦国最大の政変クーデターである本能寺の変と、それに伴う伊賀越えを主君と共に乗り越えてきた万千代に安堵した様に直虎はこの年の秋に井伊家の未来を託して黄泉へ旅立ちました。




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