1011年やにわに都は慌ただしい空気に包まれました。一条天皇が御不予となり、譲位が決まったのです。しかも何とはかないことか、病は悪化の一途をたどり、発病からたったひと月で、一条天皇(32歳)は崩御されてしまいました。
紫式部は中宮彰子付き女房なので、一条天皇の身辺のことは、中宮彰子のお供で御前に上がった折に拝見するか、あるいは人づてに聞くかで、断片的にしか知ることができません。それでも、一条院内裏全体を覆う雰囲気や、中宮彰子や道長のお顔色から、ことがどんどん深刻になってゆく様子はうかがい知られました。
しかしその深刻さと向き合う態度が、中宮彰子と道長とでは違っていました。中宮彰子はひたすらに一条天皇の身を案じ、いっぽう道長は、はっきり言って浮かれていました。最期を迎える苦しみの中にある一条天皇よりも、一条天皇亡き後の自分の権勢ばかりを見ていたのです。紫式部たち女房の目にもそれは明らかでした。そして中宮彰子ご自身も、そのことを感じていました。
中宮彰子にとってこの一条天皇の発病から崩御に至るひと月は、生まれ変わりの時期になったと、紫式部は思っています。父道長始め一家のためだけを思い、道長に命ぜられるがままに生きていた人生から脱皮して、ご自身の意志によって生きるようになられたのです。その瞬間のことは、噂となって世に流れ、今や誰もが知っています。ことの次第は、つぎのようでした。
一条天皇は、中宮彰子のもとで過ごした翌日の五月二十三日に具合を悪くされましたが、ほどなくすっかり回復された様子でした。ところが、唐突にも二十七日には御譲位が決定してしまいました。ことの急展開に、一条天皇付きの女房たちは「御容態が悪いわけでもないのに御譲位とは」とうろたえ、声を上げて泣いたといいます。
譲位のことを知らされていなかったのは、中宮彰子も同じでした。中宮彰子に譲位の知らせがあったのは、一条天皇と道長と東宮によってすべてが決められてしまった後でした。
中宮彰子は女房たちを前に言いました。「父上が、この譲位の知らせを伝えるために、一条天皇の御前から東宮のもとに行った道は、私の上の御局の前を通る道ですね」。中宮彰子は、道長の行動に底意が潜んでいることを見抜いて、それに傷つかれたのです。「もしも父上が私への隔て心をお持ちでなかったら、教えて下さったはずでしょう。でもそうではなかった。父上は、私に秘密にしておこうと思われた。だから何も告げなかったのです」。中宮彰子は道長が自分を邪魔者扱いし、意図的に除け者にしたと見抜かれたのです。
中宮彰子は、身も心も道長と一つにして来たのです。でもこの日、中宮彰子は、道長の中に「隔て心」を見取りました。中宮彰子の「身」を導いてくれるはずの道長が、自分に都合が悪いと思うやいなや、中宮彰子との間に壁を作って、中宮彰子を疎んじました。
それが中宮彰子の「心」を目覚めさせたのだと、紫式部は思いました。中宮彰子の心は初めて、道長の娘という「身」と一つではなくなりました。道長と袂を分かつ勇気を持ったのです。それは人形ではない心、独立した一人の人間としての意志と言ってよく、中宮彰子はこの時ようやく人として自分の言葉を語りだしたのです。
道長の狙いは、誰の目にも明らかです。実の孫である中宮彰子の第一子を帝に頂いての、摂政就任です。一条天皇の御在位は、この年で既に二十五年の長きに渡っています。それでもまだ一条天皇は壮年で、また明晰で、臣下からも聖帝とあがめられています。でも道長は心の中で、その長さに業を煮やしていました。
中宮彰子はこうした道長と一条天皇の間にいます。だから二十七日朝、譲位の意志を東宮に伝えよと一条天皇がおっしゃった時に、道長に不安材料があったとすれば、それはまず中宮彰子が反対することだった、と紫式部も思いました。
紫式部はいつからか、心に決めています。道長ではなく、中宮彰子こそが自分の主人です。強くなった中宮彰子を前に再び中宮彰子を支えてゆこうと決心しました。
中宮彰子の目論見はすぐに当たりました。以後の貴族社会は、道長も含めてどの方も、中宮彰子を無視するわけにはいかなくなりました。中宮彰子の意志を伺い、意見を尊重するように、流れが変わりました。中宮彰子はこの日から、逞しい国母への道を一歩、大きく踏み出されたと言えます。
参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り