9-前半.紫式部の育った環境 没落 (紫式部ひとり語り)
山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集
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没落
この荒れた庭。かつてはここで中納言兼輔と右大臣定方が酒を汲み交わし(酌み交わしの間違い?)、紀貫之が歌い、清原深養父が琴を弾いた。それから百年近くが過ぎたとはいえ、そう遠い昔と思えないのに、栄華はあれよあれよという間に過ぎ去った。
延長八(930)年に醍醐天皇が亡くなると、後を継いだのは朱雀天皇、母は忠平様の妹の穏子中宮だ。天皇はたった八歳で、忠平様がすんなり摂政となられた。曾祖父ら一族が天皇の外戚だった終わった。失意の中、定方は承平(じょうへい)二(932)年に逝った。兼輔も翌承平三(933)年に世を去った。それ以後、政治の風は二度と我が家に吹いてこなかった。
こうして、兼輔の息子、私にとって祖父である雅正(まさただ)の代から、家は凋落した。雅正は受領どまり、清少納言の父ではないが周防守や豊前守など受領を渡り歩き、位も死ぬ時にやっと従五位下と、貴族の最底辺にしかたどり着けなかった。
それでも和歌の能力は保たれて、雅正も「後撰和歌集」に歌を採られている。しかしその詠みぶりはどうだ。
花鳥の 色をも音をも いたづらに 物憂かる身は 過ぐすのみなり
[花の色も鳥の鳴き声も私には空しい。この身はただ物憂い日々を過ごしているだけなのだ] (「後撰和歌集」夏212番)
紀貫之から無沙汰を謝る歌を贈られて返した歌だが、なんとわびしい調べだろう。
二人は互いに家を訪ね合う仲だった。(「後撰和歌集」春下137番詞書)。この時はたまたま貫之が病気で家にこもっており、雅正(まさただ)はそれを寂しがっているのだが、鬱屈の理由はそれだけではあるまい。こんな歌を受け取って、貫之は心配になったことだろう。自分の親が可愛がってやった貫之から逆に同情を受ける、これが雅正の現実だった。
私はこの歌も、自分の作品に引いた。
年頃つれづれに眺め明かし暮らしつつ、花鳥の色をも音をも、春秋に行き交ふ空のけしき、月の影、霜雪を見て、そのとき気にけりとばかり思ひわきつつ、「いかにやいかに」とばかり、行く末の心細さはやるかたなきものから
[夫が亡くなってから数年間。涙に暮れて夜を明かし日を暮らし、花の色も鳥の声も、春秋にめぐる空の景色、月の光、霜雪、自然の風景に触れては「そんな季節になったのか」とは分かるものの、心に思うのは「いったい私と娘はこれからどうなってしまうのだろう」と、そのことばかり。将来の心細さはどうしようもなかった。]
(「紫式部日記」寛弘五年十一月)
「紫式部日記」の中で私が、夫を亡くした後の寂しい生活を振り返って記したくだりだ。そんな場面で祖父の和歌が役に立つとは、皮肉なことだ。だが、これを書きながら私はどこか嬉しかった。華やかな歌でも苦しい歌でも、一家の歌を少しでも自分の作品に拾い上げ、もう一度活かす。それができるのは、ものを書く人間の特権ではないか。
つづく