15-4.紫式部の育った環境 弟、 惟規(のぶのり) (紫式部ひとり語り)
山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集
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弟、 惟規(のぶのり) つづき
都から東へほんのわずか下ったばかりの逢坂の関辺りで、もう都が恋しいとは、ふがいないところが惟規らしい。でも弟はきっと、歌枕を通ったのが嬉しくて、それを歌仲間に自慢したくてこの歌を詠んだのだと、私は思う。
贈られた源為善は高名な歌人源信明(さねあきら)の孫で、時に歌壇でもてはやされていた源道済(みちなり)にとっても従兄弟にあたる人だ。道済らの一派はそれまでの宮廷歌人とは少し違い、日常生活よりも歌の世界のほうを重んじて、そこにのめり込むところがあるように感じられる。惟規もそうした風流歌人の一人を粋がっていたのかもしれない。
だがそれはそれとして、今となれば私には、この為善が故源国盛の息子であることが、何かの因縁のように感じられてならない。国盛は長徳二年、除目で越前守に決定していたにもかかわらず、父が道長殿の肝いりで越前守となったために、その官をいわば奪われた形になった人だ。
その後、播磨守に任ぜられたが、病を得て亡くなった。その人の息子と惟規がたまたま和歌の世界で出会い、気が合った。それだけではなく、父の任国である越後へ行く道中に、惟規が彼を恋しがり、挨拶を送った。これは何かの符合なのだろうか。それとも偶然なのだろうか。
私がそのように思うのは、惟規が、こうして越後へ赴いたまま結局二度と都に戻らなかったからである。旅の間に重い病を得、越後へ辿り着くことはできたものの、その地で客死してしまったのだ。弟から逢坂の関の歌を受け取った為善は、返事を書いて越後へ送った。だがそれが届く頃には、惟規はもう返事が書けなくなっていた。
為善は惟規に代わって父から、切々とした手紙を受け取ったという(「難後拾遺」)。かって父は、彼の父の国盛を、そのつもりは全くなかったとはいえ失意に追いやった人間だ。その挙句の国盛の死であったならば、父が国盛の死の原因を作ったと言われても否めない。その国盛の息子に、父は逆に息子を亡くして、失意の手紙を送ることになったのだ。
だがそれは、少し季節が進んだ後のことだ。それ以前に私は、もう一つの大きなできごとに巻き込まれた。帝の代替わりである。
つづく