8-後半.紫式部の育った環境 優雅な曾祖父たち (紫式部ひとり語り)
山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集
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後半・優雅な曾祖父たち
兼輔邸の藤も見事だった。その盛りに兼輔は定方を招き、貫之を侍らせ夜を徹して宴と花を堪能したのだ。
藤の花を女に見立てて「寝た」だの「色」だのと、曾祖父たちの歌は軽く、色っぽく、豪快だ。それに比して貫之の歌は、頭の中で作った体(てい)で、分かりにくい。「浅い」と「深い」の対比にも、機知を利かせようという魂胆が見え透いている。
まあそれも仕様がない、貫之は曾祖父たちの前では、ここぞとばかりに歌の腕前を奮う必要があったのだもの。うちの曾祖父たちが、貫之の援助者だったからだ。そう、それは貫之だけではない。例の清少納言の祖、清原深養父(きよはらのふかやぶ)も兼輔邸に召されて、琴など弾いていたのだ(「後撰和歌集」夏167番詞書)。
清少納言と私のことを、同じ受領階級に属するなどと、一緒にしないでほしいものだ。私の家は、少なくとも三代前には文化の庇護者、歌人たちの盟主だった。あちらは父親の清原元輔がようやく周防守(すおうのかみ)など遠国(おんごく)の国司になって息をついたようない家ではないか。
歌人といえば、紀貫之と同じく「古今和歌集」の選者として名高い凡河内躬恒(おおしこうしのみつね)が、兼輔に名簿(みょうぶ)を提出したこともあった。名簿とは下僕の誓いとして差し出す名札だ。躬恒(みつね)は友人の貫之を通じて、兼輔に縁故を頼ってきたのだ。その際彼が貫之に贈った歌には、唸ってしまう。
人につく 頼りだに無し 大荒木の 森の下なる 草の身なれば
[誰にすがるあても無いのさ、大荒れに荒れた森の下草のように日の当たらぬこの身だから、ありがとう、助かるよ。]
いくら生活のためとはいえ、ここまで卑下するものだろうか。いや卑下する。名高い歌人とはいえ本職はみな木端(こっぱ)役人、少しでも出世したいのが本音だ。すがりつくものがあればどんなに惨めな物言いで擦り寄りもしよう。そうするのが当然なのだ。しして兼輔は、深い懐を以て彼らに応えた。私の曾祖父はそういう人だったのだ。
また、兼輔とくれば誰もが知っているこの歌。語り伝えられ、「大和物語」にも採られた逸話だ。
堤の中納言の君、十三の御王(みこ)の母御息所を内に奉り給ひける始めに、「帝はいかがおぼしめすらむ」など、いとかしこく思ひ歎き給ひけり、さて、帝に詠みて奉り給ひける。
人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな
先帝いとあはれにおぼしめしたりけり。御返しありけれど、人え知らず。
[堤中納言藤原兼輔が、娘の桑子様を醍醐天皇に入内させなさった時のこと。桑子様は後に帝の第十三皇子の章明(のりあきら)親王様を醍醐天皇をお産みになるほど寵愛を受けられたのだが、何分最初の頃は父君兼輔殿も不安でいらっしゃった。「帝は我が娘をどのように御思いになるだろうか」と、溜息もしきり。それで兼輔殿は、このような歌を詠んで帝に進上したのだという。
人の親の心は、暗がりでもないのに迷うばかり。子を思う道に迷うのすね。
醍醐天皇は兼輔殿の親心にしみじみ感動なさったということだ。御返歌があったはずだが、それはわかっていない。]
「人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな」。私はこの歌を、「源氏の物語」に幾度となく引用した。他にもいろいろ文中に歌を引くことはあったが、おそらくこの歌を最も多く引いたはずだ。
兼輔が、醍醐天皇に入内させた娘の桑子を思っての歌。親心から、娘を愛してほしいという願いを込めた歌だ。
「恥ずかしながら親馬鹿で、子を思うが故に、闇の中の迷い人のように不安でしかたがございません」と、何と泣かせるのだろう。醍醐天皇も、一族胤子の子だ。兼輔の思いを聞き届けぬことがあろうか。帝は桑子を深く愛して、やがて玉のような男皇子、章明(のりあきら)親王まで生まれた。
残念ながら即位なさることはなかったが、親王様は私の娘時代まではお元気でいらっしゃった。兼輔が遺した堤中納言邸、そう、今その一角に私が住んでいる、この広大な敷地の隣の御屋敷にお住まいだった。
つづく