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10-後半.紫式部の育った環境 没落 (紫式部ひとり語り)
山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集
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没落 つづき
雅正(まさただ)には息子が三人いて、上から為頼、為長、そして私の父の為時だ。この三人にも、共に和歌の才能が引き継がれている。特に一番上の伯父為頼は、円融天皇の時代に関白だった藤原頼忠様にごく近く、宴や催しに出入りしては和歌を披露した歌人だ。
おや、まるで曾祖父のもとに出入りした貫之たちのようではないか。そのうえ、口惜しいことだが名声は貫之の足下にも及ばない。だが官職は貫之よりずっとましだ。貫之は六十代の半ばを超えて遠国土佐守、だが為頼は、丹波や摂津など京の近国の守を歴任。最後は従四位下にまで至ったのだもの。私は為頼伯父の歌も再利用した。
もちながら 千代をめぐらん さかづきの 清き光は さしもかけなん
[望月のまま、千年もこの月は空をめぐり続けることでしょう。そしてその清らかな光を射しかけ続けることでしょう。さあ、盃を持ちながら、いつまでも酒を注ぎかけましょう。]
(「後拾遺和歌集」雑五1153番)
これは為頼が、醍醐天皇の孫の徽子(きし)女王様のお歌に対する返歌として作った歌だ。
徽子様と言えば、伊勢斎宮を務めたのち村上天皇に入内し「斎宮の女御」と呼ばれた方だ。娘の規子内親王が後にやはり伊勢斎宮となられたのだが、その時、徽子女王は母としてともに下向された。そのあたりは、「源氏の物語」で六条御息所が娘と伊勢に下向する参考にさせてもらった。そんな華やかなお方の世界に歌で奉仕する場面が、伯父にもあったのだ。
私はこの歌を、中宮彰子様に仕えていた時に、自分の歌に利用した。中宮様が最初の皇子をお産みになって、その誕生祝いの席でのことだ。あの会には藤原公任(きんとう)様がご列席だった。女房たちは、自分に盃が回ってきたら飲み干して和歌を詠まなくてはならない。「文化の世界の重鎮である公任様の前では、和歌の出来栄えはもちろん詠みあげ方にも要注意よ」などと皆で言い合って、めいめい和歌を考えた。それで私も緊張して、頭の中で懸命に歌をひねったのだ。
めづらしき 光さしそふ さかづきは もちながらこそ 千代もめぐらめ
[中宮様という月の光に、皇子様という新しい光までが加わった盃です。今日の望月のすばらしさのまま、皆様がこの盃を持ち続け、千代もめぐり続けることでございましょう。]
(「紫式部日記」寛弘五年九月十五日)
しかし結局その夜、和歌を所望されることはなかった。せっかく作ったのに、残念ながらこの歌は披露されなかった。
だからせめて「紫式部日記」の中には記しておいてやったのだ。できることならやはりあの宴で披露し、公任様のような権威の御耳に入れたかった。だって公任様は、為頼が昔御世話になった関白頼忠様のお子だもの。
もしかしたら為頼の歌も御記憶にあるかもしれない。それで勘付いて下さったら、どんなによかっただろう。でももう、悔しがってもせんないことだ。
つづく
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