
15-1.紫式部の育った環境 弟、 惟規(のぶのり) (紫式部ひとり語り)
山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集
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弟、 惟規(のぶのり)
寛弘八(1011)年正月、私の弟惟規に慶び事があった。従五位下に叙せられたのだ。朝廷に官人多しといえども、六位以下の位階しかもたぬ者はただの下級官人、いわば木端役人にすぎない。五位から上の位を与えられたものだけが、「貴族」と呼ばれる。
だから、六位から従五位下に昇進することは特に「序爵」と呼ばれている。下級官人たちにとっては人生の大きな目標なのだ。今回の叙爵で、弟もついに貴族の仲間入りを果たした。栄えある血脈の我が家が、弟の代で貴族の地位を手放さずに済んだと思うと、私は心から安堵し、嬉しかった。
考えてみれば、祖父の雅正(まさただ)はこの従五位下が極位(ごくい)、つまり生涯で辿り着いた最高の位階だった。惟規はその点で言えば祖父を超えた。すでにそう若くはないが、まだ先も見込めるかもしれない。
だが、いっぽうで私の心は複雑だった。惟規はそれまで六位蔵人の職にあったからだ。六位蔵人は、六位という低い位にもかかわらず、特別な輝きを放つ官職だ。蔵人は、帝の傍に侍し、お食事を給仕したり身の回りのお世話をすると共に、帝のお言葉を公卿に伝え、また公卿の言葉を帝に伝える。六位でありながら特に許されてこの蔵人を務めるのが、六位蔵人だ。
普通ならば弟など庭の地べたにひれ伏すばかりの方々の邸宅にも、帝のお使いとなれば堂々と上がり込んで、時には褒美に加え盃などまで頂戴する。
惟規も,四年間のお勤めの間には、そんな華やかな仕事を命ぜられたことがあった。あれは寛弘五年の秋、中宮様がご出産に向けて内裏から土御門殿(つちみかどどの:道長の邸宅だが、もともとは妻の倫子の持参不動産)にお移りになった時だ。
御退出の翌朝、帝から中宮様への後朝の文をお届けする使いを仰せつかったのだ。ところが惟規ときたら、お手紙を渡したまでは良かったが、土御門殿で待ち受けていた公卿の四、五人に酒を勧められ、その場で何杯も飲み干して、とうとう泥酔してしまった。(「御産部類記」後一条院「不知記」同年七月十七日)。
考えてみれば、あれはあれでいかにも弟らしい。だがその失敗すら、六位蔵人という職が有ってこそだ。
つづく
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