山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
蓬生:よもぎう
光源氏が須磨に退去し京を留守にしていた間、末摘花はただひたすら光源氏を待ち続けていた。光源氏からは文の一つとてなく、光源氏に頼っていた暮らし向きはすぐさま悪くなり、女房たちも去ってゆく。それでも末摘花は、父・常陸宮遺愛の荒れ果てた住まいを離れず、自ら骨董品のように日々を過ごしていた。
そんななか、末摘花の叔母が受領である夫と大宰府に下向することが決まり、末摘花に同行をもちかける。叔母は以前から、自分が受領階級に身を落としたため常陸宮家から見下されたと怨んでおり、これを機会に末摘花を娘たちの女房として雇い、長年の劣等感を帳消しにしようと謀ったのだ。しかし末摘花は頑として応じない。やがて光源氏は帰京したが、末摘花のことははなから忘れて訪ねない。それでも待ち続ける末摘花に、叔母はあきれ、毒づきながら九州に去る。孤独な末摘花の周りを、季節だけが通り過ぎてゆく。
光源氏は、帰京の翌年の四月、偶然常陸宮邸辺りを通りかかって、ようやく末摘花を思い出す。まず惟光に邸内を探らせ、次いで光源氏が庭の蓬をかき分けて入ると、そこには心なしか以前より成長した末摘花がいた。末摘花の巌のような不動の心に、光源氏は感動する。前世からの運命でもあろう、以後光源氏は、こまやかに末摘花の生活の面倒を見、後には自らの別邸・二条東院へと引き取るのだった。
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末摘花が光源氏を待ったのは三年とひと月。平安時代の女が待つ理由は、二つある。一つには、万葉時代には貴族でも恋人同士が山野でデートすることがあったのに、そうしたアウトドア派が消え、貴族階級の逢瀬は女の家で行うものと決まってしまったことだ。恋をすれば女は待たなくてはならない。使いが彼の文(手紙)を持ってくるのを待ち、彼が訪れるのを待つ。それが平安の貴族女性の恋の基本的な形なのだ。
もう一つは、結婚のありかたがいわゆる「妻訪(つまどい)婚」、夫が妻を訪ねる形だったことだ。さらに、平安貴族は夫婦別姓である。平安の夫は実家と婚家を行ったり来たりして、そう毎日やってこない。光源氏など、内裏の桐壺や母から相続した二条院にばかりいて、正妻・葵の上のいる三条の邸宅には、気が向いたときに帰るといった体だ。
こうして女は、恋人としても待ち、妻となっても待つ。男を待つ心は、大方の女たちに共通の心情となる。それを描く歌や物語は、いきおい膨大な数にのぼる。
待たされた女が反撃に出ることもある。自分を待たせた男がようやくやって来た時に、家に入れず、逆に待たせるのだ。「待つ女」の代表ともいえる、「蜻蛉日記」の作者・藤原道綱母のエピソードが名高い。ただこうした反撃に出られるのは、それなりの自信か保証のある女だけだ。道綱母は決して夫の愛情を喪ってはいなかった。
保証などのない女にもできることがある。新しい男への寝返りだ。中には前の男に心を残したままという例もあって、「伊勢物語」に哀しい話が載る。田舎から宮仕えに出た夫が三年たっても帰ってこず、女は待ち続けたがついに別の男の求愛に折れた。その結婚当日、元の夫が帰宅。「あらたまの年の三年(みとせ)を待ちわびて ただ今宵こそ新枕(にひまくら)すれ (三年間、待ちわびました。でもまさに今日、他の方に嫁ぎます)」。恋情をこらえて女が詠むと、元夫は祝福して立ち去る。その後を追いかけて、女は絶望し死んでしまうのだ。
三年は、当時の法律「養老令(りょう)」が決める。夫に連絡を絶たれた妻が次に結婚するまでに待つべき期間だった。「源氏物語」で末摘花が三年を超えて心変わりせず待ち続けた設定には、必ずやこの法が関わっていよう。もっとも末摘花その人は、時間などけっして数えてはいなかっただろう。