見出し画像

gooブログのテーマ探し!

16- 平安人の心 「関屋:逢坂の巡り会い 空蝉は夫が亡くなると人にも知らさず出家」

山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  光源氏が十七歳の時に一夜ばかりの契りを交わした女・空蝉とのその後を描く巻である。
  桐壺帝が崩御した翌年、空蝉の夫が常陸介(ひたちのすけ)となり、空蝉は伴われて東国に下向した。光源氏の須磨退去の噂も耳にしながら、もとよりかりそめの関係に加え遠い地のこと、文を遣わすこともなく時が過ぎて、やがて光源氏は都に呼び戻された。

  その翌年、光源氏は石山寺に参詣。ところがそれは偶然にも、任期の果てた常陸介一行が上京し、逢坂の関を越える当日であった。復権して今は内大臣に出世した光源氏一行を、常陸介たちは路肩に車を寄せて見送る。すれ違いがてら、光源氏の胸に若き日の恋が蘇る。光源氏は、空蝉の弟で昔は子君(こぎみ)といった右衛門佐(うえもんのすけ)を呼んで空蝉に言葉を託した。
  また、石山寺からの帰りがてらにも右衛門介を呼び、空蝉への文を託した。受け取った空蝉も恋心を抑えきれずに歌を返し、二人の巡り会いを夢のように思うのだった。

  やがて、空蝉の夫の常陸介が亡くなった。空蝉とは生(な)さぬ仲の子供たちは、父の常陸介の遺言にもかかわらず冷淡だった。なかには空蝉に言い寄る者さえいて、嘆きの末、空蝉は密かに出家したのだった。なお、この六年後を描く「玉鬘(たまかずら)」巻では、空蝉は光源氏の二条院東院に住み、光源氏の庇護を受けている。一夜の女にも長き心を注ぐ光源氏であった。
************

「源氏物語」は石山寺で書かれたのか?

  「源氏物語のおこり」と題された、一冊の古写本がある。達筆とも、そうでないとも言える。だが実に力強い筆跡。所々には誤字もあるこの写本を写したのは、誰あろう太閤秀吉だ。つまり秀吉は、「源氏物語」を学ぶべく「源氏物語のおこり」なる親本を自ら写して、この本を作ったのだ。もと蜂須賀家の所蔵で、現在は専修大学図書館蔵となり影印(えいいん)本(写真版)も刊行されて、比較的容易に見ることが出来る。

  書名のとおり、中には「源氏物語」誕生にかかわる伝説が記されている。それによれば、ある時、中宮彰子は選子内親王から手紙で「春の日のつれづれを紛らわすのによい物語はないかしら」と乞われた。中宮が女房の紫式部に相談すると、式部は「旧作では新鮮味がございません。新作を作ってお目にかけてはいかがでしょう」。中宮は「ならば作りなさい」と命じ、式部は物語を作らなくてはいけないことになった。式部が「もしや石山寺に詣でれば作れるか」と参詣したところ、時も八月十五日、満月が湖の水面にくっきりと浮かぶのを見て心が澄み渡り、即座に源氏物語五十四帖を作ったのであった、という。

  いったい「源氏物語」は、真実石山寺で書かれたのだろうか。それは誰もが抱く素朴な疑問であろう。

  現代の研究者は、これには答えることが出来る。「源氏物語」はおそらく、紫式部の宮仕え前に書き始められた。しかし宮仕え後も続けて執筆された。だから、女房となってから中宮の下命を受けたとしても、そこに全く矛盾はないのだ。ただそれで紫式部が石山寺に籠ったかどうかというと、その点はやはり不明だ。彰子下命という風聞については「無明草子」も、石山寺にはふれていない。事実とも説話の創作とも、どちらとも言えないのである。

  ただ石山寺は、当時大きな信仰を集めた寺であった。本尊は観音菩薩。同じ仏でも、阿弥陀様が極楽往生を叶えてくれるのに対して、観音菩薩は現世利益担当である。縁結び、子授け、待ち人。人それぞれの願いに合わせて、観音様は様々の姿に変化して、思いを叶え、人を救済してくれると信じられた。「蜻蛉日記」の作者・道綱母は夫の愛を取り戻すことを願って石山寺に籠ったし、「和泉式部日記」も和泉式部が親王との恋に迷って籠ったことを記す。苦しい時の石山寺頼み。「だから、紫式部だって」として説話が生まれるだけのことは、確かにあったと言える。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「平安人の心で読む源氏物語簡略版」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事