山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
薫二十三歳の二月、匂宮は長谷寺詣での帰途、宇治に立ち寄った。薫から宇治の八の宮の姫たちのことを聞かされ、興味をそそられていたのである。右大臣・夕霧が父の光源氏から伝領した別荘が宿とされ、薫など貴公子たちが都から赴いて匂宮を迎えた。その賑やかな管絃の音が対岸にある八の宮邸に届くと、八の宮は都での過去の風流を思い出し、薫宛てに誘いの文をおくる。
それに匂宮が返歌を書いたことで、匂宮と八の宮一家との交際が始まる。八の宮は、匂宮への返歌は専(もっぱ)ら中の君に書かせおくらせた。
八の宮は重厄の年齢で不安になり、二十五歳の大君と二十三歳の中の君の、我が亡き後の後見を薫に頼む。薫は誠意を尽くすと誓う。しかしいっぽうで八の宮は、大君と中の君には、軽々しい結婚はせず宇治で生涯を終えよと訓戒する。その後、山寺に籠った八の宮は病づき、あっけなく亡くなった。
涙に暮れる姫たちのもとに薫は駆けつけ、自らも悲しみをかみしめながら葬儀や法要の万事を整える。匂宮もたびたび文を寄越すが、八の宮亡き今、姫たちは男性との交際に警戒心を強めていた。
だがそんななかでも、まじめな薫に対しては、姫たちは心を許して文を交わした。冬になっても薫は積雪をおして宇治に赴く。そして匂宮の想いを伝える傍ら、大君に自らの愛を告白し、京への迎え取りを申し出る。大君は薫の気持ちを厭い答えないが、そんな反応も薫にはつつましやかで好ましく映るのだった。
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親王という生き方
蛍宮と八の宮の人生は、平安時代の親王たちの人生の、二つの典型である。親王がいわば皇位の「補欠」であったためだ。彼らは慣例上、大臣など公卿にはならない。彼らのためには兵部卿や常陸太守など、親王専用の職が用意されていて、これらの職に就くと「兵部卿宮」「常陸宮」などと呼ばれた。だが実際に兵を統率することも、常陸に赴くこともない、名ばかりの閑職である。
つまり彼らには、政治家として政界の中枢に身を置くという生き方も、実務に精進して働くという生き方もなかった。彼らはあくまでも、皇族が途絶えた時のための「控え」であった。長い「控え」の待ち時間をどう生きるか。多くの親王たちは、学問や恋の雅に身を委ねながらひたすら時間を過ごした。そして一部の親王たちは、政治抗争に巻き込まれて悲劇に泣いたのだ。
寛弘八(1011)年、一条天皇(980~1011)は死の病に倒れた時、何より長男・敦康親王の将来を案じた。愛妻の定子が遺した愛息子である。できれば即位させてやりたい。だが後継候補には、権力者の藤原道長の娘・中宮彰子が産んだ次男もいる。「一の息子をいかがすべきか」。帝は側近の藤原行成に相談した。行成は何人かの親王のケースを挙げて答えた。行成が自ら日記「権紀」に記すところである。
まずは、「伊勢物語」にも登場して知られる、文徳(もんとく)天皇(827~858)の第一皇子・惟喬(これたか)親王(844~897)。長男であり、父の天皇からは愛されて即位も期待されていたと、行成は言う。敦康親王に重なる要素だ。だが、文徳天皇は惟喬親王に帝位を継がせなかった。選ばれたのは、時の権力者・藤原良房を外祖父に持つ第四皇子、のちの清和天皇(850~880)だった。
行成の論理は、親王とは権力者の後見あってこそのもの、後見が弱いなら、大人しく時流に任せるしかないということだ。