山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
総角(あげまき:紐の特殊な結び方の一種)
八の宮の死から一年、二十四歳の薫は宇治の姫たちを親身に後見し続けていた。一周忌の近づく八月、薫は宇治を訪れて大君と語るが、大君の心は中の君を何とか幸せにしたいという思いばかりに占められ、薫にはすげない。薫の孤独を癒やし、自然に心を重ねることを大君に望んでいた薫は、その夜話し込んだ揚げ句大君の部屋に入り込んだ時にも、彼女の意志を尊重して、事に及ばず一夜を明かした。
大君は薫の誠実さを感じ、薫を中の君に譲り二人を結婚させることを思いついた。自分は身を引き、若い中の君を人並みに結婚させることこそが自らの幸福だと、彼女は涙ながらに決意する。
八月二十日頃、八の宮の喪が明けると、薫はその月のうちに再び宇治を訪れた。そして弁に語らい、女房たちを味方として大君の寝所に入る手はずを整えた。しかし、まんじりともせずにいた大君は薫の気配を察し、隣に眠る中の君を部屋に残して壁際の屏風の背後に隠れてしまう。薫は口惜しく感じ、大君への想いを貫きたい意地もあって、中の君とも語らうだけで夜を明かしたのだった。
京へ帰ると薫は一計を案じ、八月二十八日、今度は密かに匂宮を連れて宇治を訪れた。薫の手引きで匂宮は容易に中の君の寝所に入り想いを遂げる。いっぽう薫は大君と二人きりになったが、懸命に許しを請う大君を前にすると、またもや事に及べない。あくまで大君の心を大切に扱うのが薫の真情だった。
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乳母不在で生きる姫君
「総角」巻の大君には、いらいらさせられる。何度も薫に言い寄られながら、どうしてああまで恋にも結婚にも消極的なのか。現代の肉食系女子ならば、妹と二人でダブル・ゴールインし、めでたしめでたしで終わろうものなのに。「妹に、結婚という人並みの幸せを味わさせたい」。
二十六歳の大君はそればかり考えていた。また大君は「私の結婚など、誰が面倒をみてくれようか」とも考えていた。確かに、血も母ももういない。さらに乳母さえも、二人にはいなかった。最初からいなかったのではない。大君の乳母も中の君の乳母も薄情な人物で、二人がまだ幼い間に、出ていってしまったのだ。
平安時代の文献を見ると、史実か虚構かを問わず、乳母こそが養君(やしないぎみ)を守る最後の味方だということがよくわかる。養君の親が亡くなろうとも、あるいは離婚して出て行こうとも、乳母は生涯を捧げて養君に仕え続ける。特に養君の縁談においては、親身になって奮闘する。乳母は無償の愛の源泉であり、世慣れてもいて、養君を導く頼もしい存在だった。宇治の姉妹にはそれがいなかった。だからこそ大君は、自分が乳母代わりとなって二歳下の妹を守ろうと心に決めたのだ。